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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第92号
2006(平成18)年4月26日発行

表紙画像
企画展
外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン-F.ベアト作品展-
企画展
「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から新事実と新収資料
展示余話
横浜陸軍伝習所の日々−福田作太郎手控「陸軍御用留」から−
伝習所の生活
伝習の休暇に
横浜伝習所の閉鎖
講演&コンサート
「西洋への扉をひらく」開催!
郷土史団体
郷土史団体連絡協議会の発足―設立大会の開催によせて―
閲覧室から
閲覧室がかわりました!
資料館だより

展示余話
横浜陸軍伝習所の日々
−福田作太郎手控「陸軍御用留」から−


慶応2年7月「屯所規則」(部分)「陸軍局御用留」から
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慶応2年7月「屯所規則」(部分)「陸軍局御用留」から

  前回の企画展示に幕府歩兵頭福田作太郎(重固)の旧蔵資料を幾つか出陳した。福田は、天保4年(1833)江戸に生れ、神奈川奉行支配組頭、初代鉄砲製造奉行を経て慶応2年歩兵差図役頭取、3年歩兵頭並、4年歩兵頭兼御勘定頭取、維新後は明治政府に仕え、工部大書記官などを務めて明治43年(1910)死亡した(『明治過去帳』)。資料は数年前に購入したもので、横浜での三兵伝習時代の手控や教則本(写)など全19点、当館「館蔵諸文書目録No.659」に内訳を記載している。「陸軍局御用留」は、冒頭にフランスの陸軍編制を書き留め、慶応2年3月から3年12月までを記した小型の冊子である。福田は、歩兵組士官のほか俗務係、会計係を担当したから、御用留には伝習所の庶務や経理、仏人軍事顧問団への給与支払、軍装や備品等の購入に関する記録が含まれ、勝海舟『陸軍歴史』を補完する貴重な資料となっている。

伝習所の生活

  横浜の陸軍伝習所は、慶応2年6月、野毛山の南麓太田陣屋に開設され、「三兵屯所」と書かれた杭が建てられた。陣屋は現在の中区日ノ出町付近。横浜開港に先立ち、当時警備を担当した越前福井藩が築いた。ここで、幕府の歩・騎・砲三兵常備軍が洋式軍事訓練を行い、翌年早々からは来日したフランス軍事顧問団による直接指導が始まった。伝習所の様子を「屯所規則」によって見てみよう。規則は屯所開設の翌7月に制定され、全16項目からなる。幾つか列挙しよう。

伝習中三兵役々一和いたし候儀肝要に候、尤各局之事件惣て三兵頭打混し取扱候間、彼我之差別相立テ申間敷事
屯所中飲酒堅禁制之事
火之元入念互ニ心附可申事
役々業前伝習之余力を以読書勉強可致候、且無益之談話を以人之課業を妨け候儀は致間敷候事
他行中別て謹慎いたし、酒店等江相越候儀は勿論、不行跡之儀無之、外国人は尚更、惣て他向之もの江対し不敬之儀無之様、精々心懸可申事
役々御用之外は何方江罷越候とも暮六ツ時限り罷帰可申候事

  屯所の出入口は、午前6時に開門、夕6時に半閉じ、夜10時閉門となる。「屯所は陣営之儀」(第3項)も同様で、服装や飲酒、外出など厳格な規律と勤勉とが要求された。また、屯所内の事件は総て三兵頭の対等な協議で処理する事とされ、士官達による自治的組織であった。

伝習の休暇に

  騎兵頭の成島甲子太郎(きねたろう)(柳北)は、同僚の諸隊長と申し合せ、早朝に隅田川へ花見し、そのまま登営して上司から叱責されたと述懐し、江の島や神奈川台に遊んだ折の詩を残している。屯所規則にも「日曜日遊歩ニ罷出候儀不苦候」とあり、しばしば遠乗りを楽しんだようだ。「御用留」に、次の届けが記録されている。

横浜三兵屯所ニ相詰罷在候私共始騎兵大砲役之組共、日曜日、水曜日等ニは馬術相試候ため、十里内外之地江乗切罷出候様教師申聞候、尤品ニより多人数ニて教師一同相越候儀も可有之候、依之此段申上置候、以上

卯(慶応三)二月成島甲子太郎
萬年真太郎

頃は観桜の季節を迎える。萬年は大砲組之頭 (のち砲兵頭)、 フランス人教師の同道も予定していたか。これに対して、 20日老中松平康直から次の様な許可が降りた。

書面之趣は不苦候、尤多人数ニて
教師一同相越候節は、途中警衛之
心得を以、不取締之儀無之様精々
心付可被申候事

横浜伝習所の閉鎖

  幕末政局の緊迫化は、幕府陸軍の精鋭を長く横浜に留め置くことを許さなかった。5月1日、三兵伝習掛に江戸表への移転方針が伝えられ、6月3日には、陸軍奉行総裁の松平乗謨から次の指令が出された。

横浜表ニ罷在候伝習兵之内、騎兵は来ル十日、砲兵は十一日江戸表屯所江引移候様可被致候、尤雨天ニ候ハゝ日送之積可心得候事

  歩兵は、なお暫く横浜に留まった。9月20日、残留歩兵部隊を率いた成島は「旭日旗頭旭日明、兵馬粛々発山営」と詩に賦し、当初隊列も組めなかった兵達は、今や整然と大隊を成し行軍していた。江戸移転後もフランス人軍事顧問による三兵伝習は続けられたが、幕府の瓦解は目前に迫っていた。御用留は「政権返上」と注記し、大政奉還の諮問書、朝廷の沙汰書などを書き留めている。

  以上、限られた紙面に、「御用留」のほんの一端を紹介した。今度は、当館の閲覧室で実際に手に取って読み解いて欲しい。資料館では、様々な課題や関心を持った市民や研究者の要望に応えることが出来るよう、関係資料を幅広く収集すべく努力を重ねている。資料館を大いに利用していただきたい。

(佐藤  孝)


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