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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第92号
2006(平成18)年4月26日発行

表紙画像
企画展
外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン-F.ベアト作品展-
企画展「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から新事実と新収資料
来日までのベアトの足どり
文久3年秋のパノラマ
3冊のアルバム
展示余話
横浜陸軍伝習所の日々−福田作太郎手控「陸軍御用留」から−
講演&コンサート
「西洋への扉をひらく」開催!
郷土史団体
郷土史団体連絡協議会の発足―設立大会の開催によせて―
閲覧室から
閲覧室がかわりました!
資料館だより

企画展
「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から


文久3年秋の横浜全景(右半分)
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文久3年秋の横浜全景(右半分)
右手は元町の家並み、堀川の向こうが外国人居留地。左手、前田橋の右手前に、不審人物の出入りを取り締まるための関所が見える。橋から伸びる本村通りの突き当たり右手の建物はカトリック教会の天主堂、建築中の鐘楼が写っている。画面中央の三角屋根の建物は英国教会のクライスト・チャーチ。

来日までのベアトの足どり

  横浜開港資料館では、昭和62年(1987)の春に、企画展示「写真家ベアトと幕末の日本」を開催し、それに合わせて『F・ベアト幕末日本写真集』を刊行した。その解説編「横浜写真小史」では、ベアトをはじめ、幕末・明治期に横浜で活躍した写真家について、判明するかぎりの事実を記載した。とくに外国人カメラマンについては、初めて公表された新事実がたくさんあった。

  しかし、それからもう約20年が経過した。その間に発見された新事実もたくさんある。とくに外国人研究者が多くの成果を挙げている。たとえば、来日までのベアトの足どりについて、前稿では旧説を紹介するにとどまったが、その後、イギリスの研究者、ジョン・クラーク、ジョン・フレーザー、コリン・オスマン3氏の共同研究*によって、旧説は大きく書き改められることになった。(*John Clark, John Fraser, and Colin Osman, A revised chronology of Felice (Felix) Beato', Japanese Exchange in Art 1850s-1930s, by John Clark, Sydney, 2001.)

  ベアトの出自については、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)のイギリス総領事館の記録から、父はダヴィデ・ベアト、生年は1834年、場所はかつてヴェネツィアの植民地で当時イギリス領だったコルフ島(ギリシャの西方イオニア海に浮かぶ島)であることが判明した。旧説では、生年は1825年、場所はヴェネツィアかコンスタンティノープルと考えられていたのである。旧説とは9年の差がある。

  ベアトはヴェネツィア系市民の血統に属するようだが、かつて言われていたような「イギリスに帰化したイタリア人」ではなく、「イギリス領となった元ヴェネツィア領民」であり、生まれながらのイギリス国籍だったわけである。ファースト・ネームについても、イギリス国籍を取得した際、イタリア名のフェリーチェ(Felice)からイギリス名のフェリックス(Felix)に変えたものと考えられていたが、そうではなくて、後者はいわば通称であり、正式には一貫してフェリーチェだった。

  兄アントニオとともに写真家を目指すフェリーチェにとって、姉妹のレオニルダ・マリア・マティルダと結婚し、義兄弟となるイギリス人写真家ジェームズ・ロバートソン(JamesRobertson)との出会いは運命的なものであった。1853年、ロシアとイギリス・フランス連合軍との間に勃発したクリミア戦争に際して、戦争の記録のためにイギリスが派遣した報道写真家フェントン(RogerFenton)が病気になったため、ロバートソンがこれに代わり、フェリーチェがその助手を務めることになった。かくして報道写真家としてのベアトのキャリアが始まる。

  1857年には、ロバートソンとベアト兄弟はアテネからパレスティナにかけて撮影旅行を行っていた。ロバートソンと別れたベアト兄弟はインドに向かう。アントニオがカルカッタ(現在のコルカタ)にスタジオを構える一方、フェリーチェはインド大反乱(いわゆるセポイの乱)の取材に出かけ、その惨状を記録するとともに、アグラ、シムラ、ラホールなどの都市を撮影して廻った。

  1860年2月、フェリーチェは第二次アヘン戦争に揺れる中国に向かうホープ・グラント将軍の一行に合流し、カルカッタを後にした。中国に到着したベアトは、北京に向かって進軍する英仏連合軍に同行し、その際『絵入りロンドン・ニュース』と特派員契約を結んでいたイギリス人画家、チャールズ・ワーグマン(CharlesWirgman)と知り合う。

  文久元年(1861)春、一足先にワーグマンが来日、2年後の文久3年春にベアトも来日し、二人は横浜の外国人居留地24番に共同のスタジオを開設した。明治2年(1869)中にはお互いに独立し、ベアトは17番に移って写真館を開設、10年にそれをスティルフリート&アンデルセンに譲渡するまで経営していた。

来文久3年秋のパノラマ

  前回の展示以降、新たに収集したベアトの作品には、3冊のアルバムとバラの状態で購入した写真がある。後者のうち最大の成果がこの写真である。

  元町の代官坂の入り口近く、右手の尾根に登る小さな階段があり、階段に続く坂を登っていくと、右手に元町百段公園がある。関東大震災の前まで、ここには浅間神社があって、元町百段(あるいは百一段)と呼ばれる石段で登れるようになっていた。今でこそ首都高速狩場線の高架道路や高層建築に視界をさえぎられるが、かつては横浜の市街を一望のもとに収めることのできる絶好のビュー・ポイントだった。

  ここから市街の全景を写真に収めた最初のカメラマンは、イギリス人のソンダース(William Saunders)という人で、1862(文久2)年9月頃のことであった。その写真を原画とする版画が『絵入りロンドン・ニュース』の1863年9月12日号に掲載されている。

  次いで、翌1863(文久3)年夏頃に撮影されたパノラマ写真がある。それは当館が所蔵する故P・C・ブルーム氏のコレクションに含まれるもので、8×10インチのネガ・フィルムが2枚と、それを焼き付けた縦22×横79センチという長大なプリントがあり、「この全景は、生麦事件当時、鹿児島砲撃前の1863年、日本海上にあった英国海軍艦艇エンカウンター号に搭乗していたアレクサンダー・ダグラス・ダグラス中尉名のあるアルバムに収められていたものである」というメモが添えられている。

  前稿「横浜写真小史」では、これをパーカー(Charles Parker)が9月12日付『ジャパン・ヘラルド』紙に出した広告で謳っている「新しい横浜の全景(A new Panoramic view of Yokohama)」 に比定したが、それは誤りだった。イギリスの写真史研究家、セバスチャン・ドブソン氏の調査によると、ダグラス中尉のアルバム原本は、現在ロンドンのジャパン・ソサエティーに収蔵されており、1863年9月にダグラス中尉がベアトから入手したものであるという。紛れもないベアトの作品であった。

  入手した写真は3番目に当たる。前の写真では建築中だったクライスト・チャーチが竣工していることや、天主堂の鐘楼が竣工間近であることから、1863年9月頃の撮影と思われる。写真の接合の具合は前の写真よりも良くなっている。この時期これだけの写真を撮れるカメラマンはベアトしかいないと思われるが、これがパーカーの「新しい横浜の全景」に当たる可能性もある。そうであるならば、パーカーはベアトに匹敵する技量の持ち主だったことになる。しかしパーカーの技量がもう一つはっきりしないので、今の段階ではベアトに軍配を挙げておきたい。


ホープ・グラント将軍一行
坐っているのが将軍。ベアトの写真を原画とする版画。『絵入りロンドン・ニュース』1860年10月6日号より。当館蔵
ホープ・グラント将軍一行
化粧
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化粧

辻音楽師
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辻音楽師
患者の脈をとる医者
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患者の脈をとる医者

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