HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第92号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第92号
2006(平成18)年4月26日発行

表紙画像
企画展
外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン-F.ベアト作品展-
企画展「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から新事実と新収資料
来日までのベアトの足どり
文久3年秋のパノラマ
展示余話
横浜陸軍伝習所の日々−福田作太郎手控「陸軍御用留」から−
講演&コンサート
「西洋への扉をひらく」開催!
郷土史団体
郷土史団体連絡協議会の発足―設立大会の開催によせて―
閲覧室から
閲覧室がかわりました!
資料館だより

企画展
「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から
新事実と新収資料


文久3年秋の横浜全景(左半分)
〈写真をクリックすると新しいウィンドウを開き拡大表示します〉
文久3年秋の横浜全景(左半分)
右手は居留地に編入された旧横浜新田、建築ラッシュが始まっている。中央遠方は港崎遊廓、派大岡川を挟んで左へ、木の植わっている吉田新田の塩除堤、一ツ目沼、吉田新田の家並、中村川。

3冊のアルバム

  3冊のアルバムのうち1冊は、明治初期に灯台建設や横浜の都市基盤整備に貢献したイギリス人技術者ブラントン(Richard Henry Brunton)の旧蔵で、令孫にあたるウォーホップ(E. M. Wauchope)氏から寄託を受けたものである。計50枚の風景・風俗写真で構成されている。特色は、アメリカの朝鮮遠征と関西の写真が含まれていることである。

  朝鮮遠征というのは、1871(明治4)年6月、シャーマン号事件の真相究明と朝鮮の開国を求めてアメリカが出兵した事件である。遠征隊は江華島砲台を占領したが、被害も大きく、40余日で撤退した。朝鮮側が「辛未洋擾」と呼ぶ事件である。

  ベアトはその帰途、関西を訪れたようである。1871(明治4)年7月4日の台風に襲われた神戸市街の写真が残されているからである。戊辰戦争で戦火を蒙った後の荒涼たる大阪城の写真もこの時撮影されたものであろう。

  幕末期に精力的に撮影を行ったベアトだが、明治期に入ると不動産業や貿易業、さらには洋銀相場などのビジネスに関心を移してしまい、この明治4年の写真あたりが日本での作品の下限となる。その意味で貴重なアルバムである。

  2冊目は、あるディーラーがイタリアで入手したもので、風景・風俗各50枚2冊で1セットだったが、前者は収集済みの写真と重複していたので、手薄だった後者のみ購入した。ベアト自身の表現に従うと、前者は Views in Japan 後者は Na tive Types に該当する。すべて手彩色で、解説シートが付いている。ベアトがJ・W・マレー(James William Murray)の執筆になる解説シートを添えたアルバムを販売するようになるのは、1868(明治元)年以降のことである。

  最後の1冊は、じつはベアトのアルバムではない。香港のシルベイラ(Silveira)なる人物が Album du Japon と名づけて売り出したもので、明らかに海賊版である。少なくとも日本の風景写真の大半はベアトの写真を複製したものと思われる。ベアト以外の写真が紛れ込んでいる可能性も無いとはいえない。海賊版のせいか画質も悪いが、歴史資料としての価値はある。

  特色としては、パノラマ写真が多いことで、先に述べた文久3年夏の横浜全景写真も含まれている。江戸や長崎のパノラマもある。横浜の写真では、洲干弁天社の写真がよく揃っている。展示では「写真と浮世絵の対話―洲干弁天社を写す・描く―」というコーナーで、洲干弁天社を描いた絵図や浮世絵と対比して紹介する予定である。

(斎藤多喜夫)


このページのトップへ戻る▲