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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第91号
2006(平成18)年2月1日発行

表紙画像
企画展
創業の時代を生きた人びと
企画展
雑貨輸出入商・守屋道の歴程
資料よもやま話1
N.G.マンロー
資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀

坂下商店と味噌醸造
第一次大戦前後の横浜近郊農村
東横線開通と恐慌下の坂下商店
戦時下の坂下
閲覧室から
新聞万華鏡(22)
資料館だより

資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀
(大豆戸の伊東家とその資料)

大豆戸の伊東家(2003年撮影)
大豆戸の伊東家(2003年撮影)


大豆戸の伊東家(坂下)

  横浜市港北区大豆戸町に、ひっそりとした古風な門構えを見せる1軒の旧家がある。この家は、16代300年以上続く伊東家と言い、屋号を「坂下」と称する。伊東家は伊豆の伊東を発祥とし、江戸初期に大豆戸の地に入り、以来帰農したと考えられる。18世紀前半には旗本諏訪氏所領の名主をつとめており、大豆戸村が東西に分かれた後は、西大豆戸村の名主を代々つとめた。7代目当主の助右衛門は鶴見川改修に尽力した学者と言われる(伊東規久雄「伊東家の沿革・場的経営」)。


伊東伊輔(『郡制有終記念帖』より)
伊東伊輔(『郡制有終記念帖』より)

  明治18(1885)年に家督を継いだ伊東伊輔は、自宅近くに雑貨商を開業し、以後規模を拡大していった。ここでは、伊東家に残る資料を紹介しながら、明治後期から、昭和戦前期に至る伊東家と大豆戸地域の半世紀を辿ることにしたい。

坂下商店と味噌醸造

  伊東伊輔が開店した坂下商店は、当初は荒物、雑貨等を扱い、煙草の販売なども行っていた。明治39年からは、味噌醸造に着手した。「味噌醸造出納簿」と題する資料には、次のような覚書が記されている。

明治三十九年八月印麦味噌製造ヲ創始ス
同年十一月坂東一印仙台味噌製造ヲ増加ス
金子太郎吉氏ヲ以テ杜人ト為ス
但シ月給金拾二円トシ一ヶ月ニ満タザルトキハ日給五十銭割トス
杜人ガ止ムヲ得ザル事故アリ、出勤スルヲ得ザル場合ハ代人ヲ出ダスコトヲ得
但シ代人ハ日給三拾銭トス
販路ニ準ジテ製造ヲ盛大ニシ益々斯業ノ拡張ヲ計ルモノトス

  当時の資料からは、北海大豆・青柳大豆、竹林麦、赤穂塩・備前塩など、いくつかの原料を試用している様子、また横浜の弁天通・長者町や神奈川町・青木町のほかに、都筑郡田奈村長津田や南多摩郡原町田などにも販路を伸ばしている様子が分かる。大綱村でこれほど大規模な味噌の醸造家はなく、大正初年には、14,000貫目・4000円の出荷額があった(『大綱村郷土誌』)。

  大正期以降の味噌醸造については不明だが、麦味噌から「漉味噌」への転換を図ろうとして成功せず、大正7(1918)年頃から米穀商へと経営方針を転換し、神奈川町に出張所を設けた。その一方で伊東家では明治初期以来土地取得につとめ、明治44年時点で、田で40名、畑で10名の小作人を抱えていた(「田畑小作徴収記」)ほか、東京製綱、大日本麦酒、神奈川銀行などの株券を複数所有しており、そうした不動産や有価証券による収入も、重要な収入源となっていた。

第一次大戦前後の横浜近郊農村

  伊東家の資料の中に「家運」と題する明治41年より昭和20(1945)年に至る年毎の収支計算書がある。この計算書は伊東家の家計すべてをフォローするものではなく、時代によって情報の偏差があるため、詳細な分析は今後に譲るが、伊東秀輔(伊輔の次男)によるその年の景況の概観が付されており、興味深い。例えば大正6年の記述は左の通りである。

本年ハ非常ノ不作ニテ畑米全滅風災ノ為ナル故山モ畑モ相場モ同様ナリ、水田年貢二割引ナレトモ貸多シ、従テ年末決算不首尾農夫ノ購買力衰退セリ、一方工業ノ発展ノ為労力非常ニ高ク人夫上景気ナレトモ田舎商家ニハ多ク幸福トモ見ヘズ

結論要スルニ本年ハ非常ニ株騰貴ト増資増配ノ為一方臨時ヒ壱千八百円余ヲ支出セシカトモ固定資金弐千円ヲ消却シ得テ差引前年通リノ数字ヲ得テ上結果ト云フ可シ

  第一次大戦中(大正3年〜7年)、伊東家は大戦景気に伴う株価急騰と、米価高騰のなかで経営規模を拡大、大正8年には大戦前の2倍を超える利益を上げている。その一方で、この本文で指摘される通り、横浜近郊の農村では、農村労働力の基幹たる青年層が草創期の京浜工業地帯へと流出したため、地主の農業経営は困難に直面したのである。この動きは、大正9年の戦後恐慌を境に農産物価格が下落に転じると一層加速し、大綱村では多くの不作付地が見られた。更に大正12年の関東大震災は農村を直撃するとともに、復興事業により都市の労働市場は一層拡大、京浜間の農村の地主はこれまでにない苦境に立たされることとなった(八田恵子「都市近郊の小作争議と小作地返還」、『横浜の近代』、日本経済評論社、1997年)。

  この頃までに収入に占める有価証券の割合を高めていた伊東家では、大正9年からやや経営は下り坂となる。この年、株価暴落に加えて、神奈川の出張所を焼失したため、「本年度ハ意外ナル不結果ヲ来セシコト甚ダ憶(ママ)感トス」と感想を残し、味噌倉庫と什器を売却している。さらに翌10年、11年と経営は好転せず、「思フニ経費ノ節減ハ適当ナレトモ役場費ノ増収サルヽルニ依ルナランカ前年ト云ヒ、本年ト云ヒ、数字ニ於テ不結果ナルコト甚シキモノナリ」(大正11年)と記している。またその翌年の関東大震災により横浜方面の売掛代金が回収不能となり、所有家屋の焼失などによって、合計7,000円を損失、さらに大豆戸の自宅も半壊の被害を受けたほか、伊輔の三男栄三も横浜で圧死している。大戦後の伊東家は多難の時代を迎えていた。


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