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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第91号
2006(平成18)年2月1日発行

表紙画像
企画展
創業の時代を生きた人びと
企画展
雑貨輸出入商・守屋道の歴程
資料よもやま話1
N.G.マンロー
資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀
資料館だより

閲覧室から
新聞万華鏡(22)
横浜共同新聞販売会社


  明治24年(1891)4月、横浜共同新聞発売会社(以下、「共同発売会社」と記載)が設立されました。この会社は、横浜市内の6軒の販売店が共同して東京で発行されている新聞・雑誌を取り扱い、業務の拡張をはかり、読者へのサービス向上を目指すものでした。参加した販売店は、横浜市住吉町4丁目角田屋島田亀吉、本町四丁目日の出屋鈴木清之輔、尾上町5丁目魁進堂大江芳之助、太田町3丁目日月堂高月軍次、太田町4丁目鴻文堂鈴木幸次郎、弁天通6丁目万里商会榎本慶三郎の6軒でした。

  共同発売会社は、『横浜貿易新聞』と、『東京日日新聞』、『毎日新聞』、『時事新報』、『郵便報知新聞』、『東京朝日新聞』、『朝野新聞』など東京府下の新聞各紙に、設立広告を掲載しました。所在地は横浜市住吉町4丁目57番地、前年交換業務がはじまった電話も開設し、番号は27番となっています。当時の新聞販売店は、特定の新聞だけでなく、複数の新聞・雑誌を扱っていました。

  さて、このころ東京では、大阪の『朝日新聞』が進出し、明治21年に『東京朝日新聞』を発行しました。同紙は、経営第一主義に立ち、報道中心で不偏不党を唱え、絵付録を配布し、半年間定価半額などの販売戦略を展開して販売部数を伸ばします。その結果、定価販売を求める従来からの新聞社との間で対立するようになりました。

  明治23年、毎日新聞社、三益社、時事新報社、朝野新聞社、日就社、国民新聞社、江戸新聞社、報知社、日報社、やまと新聞社、東京新報社、政論社、都新聞社、絵入自由新聞社、東西新聞社、商況社の16社が、同盟を結んで『東京朝日新聞』と対抗します。そして、同盟16社は販売店に対し、16社の新聞を取り扱うか『東京朝日新聞』の専売店となるかの選択を迫ります。

  その影響が横浜にも及んできました。翌年、明治24年9月2日の『毎日新聞』付録に、共同発売会社の消息が載っています。会社の設立から半年あまりたち、事業は順調にすすみ、横浜市中の新聞紙販売は同社の一手取り扱いとなりました。しかし、東京府下の諸新聞社が、『東京朝日新聞』と同系列の『国会』の両新聞社の販売戦略に憤り、同盟して販売店を両社の専売店とほかの新聞社の新聞を扱う販売店に分けることになったので、横浜の販売店も去就を決めないとならなくなったということです。

  共同発売会社の扱う新聞の大部分は同盟新聞社の新聞でしたが、『東京朝日新聞』、『国会』両新聞社の新聞を従来取り扱ってきた商業上の義理があるので、両新聞社と読者に迷惑が及ぶのを避けるため、両新聞社と協議の末、9月1日以降、共同発売会社は同盟の新聞紙を取り扱い、共同発売会社設立以前から『東京朝日新聞』、『国会』両紙を取り扱っていた魁進堂大江芳之助が、共同発売会社から両新聞の読者を引継ぎ、独立することになりました。

  共同発売会社がこのような便宜をはかったのにもかかわらず、両新聞社が新聞の価格を下げたので、販売店の間で激烈な販売競争が展開されたということです。


横浜共同新聞販売会社設立広告『横浜貿易新聞』明治24年4月23日
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横浜共同新聞販売会社設立広告『横浜貿易新聞』明治24年4月23日

(上田由美)


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