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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第91号
2006(平成18)年2月1日発行

表紙画像
企画展
創業の時代を生きた人びと
企画展
雑貨輸出入商・守屋道の歴程
甲府勤番守屋家のこと
武士団の解体と守屋家
守屋道の経歴
教育界から実業界へ
館内・弁天通への出店
資料よもやま話1
N.G.マンロー
資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀
閲覧室から
新聞万華鏡(22)
資料館だより

企画展
武家出身の横浜貿易商
−雑貨輸出入商・守屋道の歴程−


  磯子区内の高台に守屋家を訪ねたのは、確か開港資料館が開館して間もない頃だった。今は亡き政雄さんから、家の中を整理中に古い資料が出てきたとの連絡を貰い、父上の道(ただし)氏が遺した横浜開港50年記念品の横浜市の徽章や陶製杯、それに天金も鮮やかな『横浜成功名誉鑑』(箱やカバー紙付きの完全本)、その他文書記録資料を一括して寄贈して頂いた。この『名誉鑑』は各界の功労者、成功者1千余名の小伝を収録した紳士録だが、中に「雑貨輸出入商守屋道君」の1頁がある。本書の中心は全体の約4分の1を占める貿易商で、原善三郎や茂木惣兵衛、小野光景など大貿易商から中小商人までを含むが、そのほとんどは商業経験者と考えられる。その中で、守屋道は幕臣の子に生まれ、小学教員から貿易商に転身した特異な経歴の持ち主である。幕府崩壊から廃藩置県、秩禄処分へと時代の激浪に翻弄されながら、一身の努力によって明治の横浜経済界で成功し、『名誉鑑』に登載された1人だった。

  資料(守屋政雄家文書)は、これまで閲覧に供し、一部展示等で紹介してきたが、ご寄贈の趣意に適うべく、この資料群がより多くの方々に利用される切掛となることを願い、資料に即しながら守屋道の波瀾に満ちた生涯を辿ってみよう。


守屋道の小伝『横浜成功名誉鑑』から
守屋道の小伝『横浜成功名誉鑑』から

甲府勤番守屋家のこと

  守屋家の初代は守屋治右衛門政武といい、もと武田信玄に仕え、のち常陸国守屋村(茨城県北相馬郡守谷町ヵ)に住まい、家康の関東入国の後は徳川氏に召し出され、2代政勝は伏見・大坂蔵奉行に補任された。のち小普請組、天保年間に甲府勤番となる。禄高は200石。道の父正直は、文政9年(1826)甲府勤番永井正勝の次男に生れ、のち守屋政嘉に養子縁組して嘉永5年(1852)家督を相続、守屋家第十代となった。翌年ペリー来航、開国か攘夷かで国論分裂、幕末動乱時代の幕開けとなる。道は、文久元年(1861)正直の長男として城下百石町の屋敷に生れた。戊申戦争時、勤番の幕臣の中には城を棄て江戸に遁走して家財道具を投げ売りし、また残留の婦女老幼に駕篭で脱出しようとする者もあり、上下混乱を極めたという。板垣退助率いる新政府軍が甲府に入城した時、母は道と5歳の弟を連れ、一時城下の商家に身を隠したという。しかし、上野戦争の帰結により勤番士は全員新政府に帰順、正直は甲府の地で親衛隊、ついで護衛隊に任ぜられ、高百石の禄を受けた。(「守屋正直履歴」、「先祖書」)。

武士団の解体と守屋家

  明治2年(1869)6月版籍奉還、同年末正道は甲府県(のち山梨県)貫属士族となり、新禄制によって16石に減禄された。次いで廃藩置県、徴兵令、地租改正へと旧封建家臣団を解体する施策は、9年金禄公債証書発行で決定的となる。正直には全部で4枚、額面875円の証書が交付されたが、11年12月、「従来人数多ニテ疲弊罷在候ニ付、将来生計之産業興起之見込篤と家族共協議熟考」(「金禄公債証書御買上願」)した結果、家と田畑の購入資金にしたいと証書買上を出願、許可となった。守屋家は、わずか数年にして利付公債を手放し、得た資金を元手に山梨県西山梨郡飯沼村(現、甲府市)に耕地を求め、帰農することとなる。代々の俸禄から放たれ、貨殖治産の道に疎い大半の士族層と同じく、日々の生活は楽ではなかったようだ。正直は私塾で教え、時に監獄吏員となって家計を支えたという(「守屋正直履歴」)。


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