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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第91号
2006(平成18)年2月1日発行

表紙画像
企画展
創業の時代を生きた人びと
企画展
雑貨輸出入商・守屋道の歴程
甲府勤番守屋家のこと
武士団の解体と守屋家
守屋道の経歴
館内・弁天通への出店
資料よもやま話1
N.G.マンロー
資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀
閲覧室から
新聞万華鏡(22)
資料館だより

企画展
武家出身の横浜貿易商
−雑貨輸出入商・守屋道の歴程−

教育界から実業界へ

  辞表提出後、市中の会社銀行への就職、東京、台湾、北海道での仕事を模索したが、同年11月から居留地57番の貿易商スタデルマン(G.Stadelmann)の商館へ勤務した。同商館は56番に拡張移転し、道は57番館の倉庫支配人として荷物の受取から検査、荷造り、税関での積出手続きを担当し、貿易実務を現場で学んだ。しかし、翌29年末、将来独立するための準備として私書箱を開き、私的に集めた見本品が倉庫からの窃盗品との嫌疑を受け、収監された。更に出獄直前に妻みつが病死、二重の不幸に襲われる。道の「日誌」は、苦楽を共にした妻との歳月とその突然の死の経過を、深い悲しみを以て綴っている。

  その後、為すべき事業が定まらず、行商や仲買商を転々としたが、31年7月、漸く常盤町1丁目に守屋商店を開業する。営業内容は、雑貨・飲食料品の海外直輸出及び売込、海外輸出入品の委託売買であった。

関内・弁天通への出店

  32年2月尾上町2丁目に移転、同年末販路開拓のため香港・シンガポール・マニラへ渡航、35年清国の天津、38年大連、旅順に支店を開き、北部中国大陸での貿易活動の拠点とした。大連支店では、物品販売・仲買業に加えて理髪業・料理店・雑貨商・旅館業、更に貸家業・建築材料商と事業を拡張した。大連は、日露戦争後日本の租借地となり、南満州鉄道会社が設置されるなど、日本の大陸経営の拠点都市となっていた。現地支店の新規業務は、ますます増大する居留日本人の住宅や日常生活上の需要に応えるものだった。38年10月の「店則」は、一条「我日本ノ製産品ヲ海外各地ニ輸出販売スルヲ以テ本店ノ本業」とし、二条「本店ハ輸出事業ノ外海外各地ノ物産ヲ輸入シ、且支店ハ物品販売ノ外其所在地ノ状況ニ依リ適当ト認ムル他ノ業務ヲ其地ニ於テ営ム」とした。守屋商店は、日本の大陸進出と軌を一にして北清方面に支店を広げ、事業規模を拡大し、39年、貿易商店が櫛比する関内の目抜き通り、弁天通4丁目82番地に間口5間(約9m)の洋風木造瓦葺き2階建ての本店店舗を構えた。41年には、胃ガンを患ったが、東京帝国大学病院の近藤次繁医師の執刀により生還した(「再生記」)。しかし、体調は元通りにはならず、大正元年10月逝去した。享年51歳。長男の政雄氏は、当時小学1年生、同年3月の慶応義塾幼稚舎の卒業文集に、「父は実業家になりて貿易業を営み居りしかば、僕も之を営む事を希望す」(「卒業将来之希望」)と書いたが、間もなく閉店したようだ。

  幕末に甲府勤番の幕臣の家に生まれ、維新後の厳しい家政のなか師範学校を卒業して小学校教員となり、横浜に転じて教師生活を続けたが、主に経済的理由から貿易業に転身し成功を収めた。自らの努力と才覚により、新興都市横浜で新たな生き方を切り開いた1例である。近郷近在や全国各地から、様々な事情と背景を背負った有名無名の多くの人々が、新天地に集まり浮沈を重ねた。その1人1人の成功や挫折の積み重ねが、今日までの横浜を築き上げてきたといえよう。


「守屋商店々則」明治38年10月
「守屋商店々則」明治38年10月
弁天通4丁目の本店外観 明治39年5月新築
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弁天通4丁目の本店外観 明治39年5月新築

本店2階応接室
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本店2階応接室
守屋商店大連支店の店頭
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守屋商店大連支店の店頭

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