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資料よもやま話1
N. G. マンロー
横浜での足跡をめぐって
N. G. マンローと横浜
2005年は、N. G. マンロー(Neil Gordon Munro, 1863-1942)が三ツ沢貝塚(神奈川区)を発掘してから、ちょうど百年目にあたる。
医師として、考古学者として、そしてアイヌ研究家としてのマンローの生涯については、多くの文献で紹介されてきた。近年では、横浜における考古学誕生のキーパーソンとしても、注目が集まっている。
その一方で、マンローがいつ横浜の地を踏んだのか、横浜ではどこを拠点に活動していたのかなど、横浜時代のマンローについては、いまだ十分に明らかにされたとはいえない。とくにマンローの来日時期に関しては、記憶や伝聞にもとづいた推測でしか語られておらず、決定的な資料を欠いていた。
そこで本稿では、日本に居住していた外国人の名鑑であるジャパン・ディレクトリー The Japan Directory および当時の英字新聞などの資料を検討し、横浜時代のマンローの足どりを辿るための基礎資料として提示したい。今後のマンロー研究の一助となれば幸いである。(横浜都市発展記念館 青木祐介)
マンロー来日の時期は?
N.G.マンロー来日年については、これまで1890年(谷万吉「二風谷(にぶたに)コタンの故マンロー先生を偲ぶ(3)『道友』211号、昭和52年4月20日号ほか)、1890年代初頭(E. W. F. Tomlin, Tokyo Essay, 1968)、1892年(桑原千代子「横浜時代のN.G.マンロー博士」『郷土よこはま』76号、1976年)などの諸説がある。
ジャパン・ディレクトリーによれば、マンローの記載は表1にあるように、1892年版が初出である。ディレクトリーは出版される前の年のデータに基づいているので、1892年版に名前があるということは、1891年にはすでに日本に在住していたと考えられる。
そこで、マンロー来日時期の手がかりをもとめて、横浜外国人居留地で発刊されていたジャパン・ウィークリー・メイル紙の船客到着者リストを調べてみると、1891年5月12日に香港から到着したオセアニック号の船客の中にDr. Munroの名前が載っていた。これがN.G.マンロー、その人であろう。
来日が1891年5月とすると、その前はどうしていたのかが気になる。そこで日本だけではなく、中国、朝鮮半島、フィリピンなどアジア地域の外国人の名鑑であるチャイナ・ディレクトリーを調べてみた。すると、1891年版 The Chronicle &Directory for China, Corea, Japan,the Philippines & c. for the year 1891(原本は香港歴史档案館所蔵)に「Munro, N.G., surgeon, P. & O. steamer "Ancona" China coast」と記されていた。
図1 マンロー到着の記事(下線部)Japan Weekly Mail 1891年5月16日号
来日以前のマンローについては、船医時代があったとされているが、この記述はそのことを具体的に裏づけている。1891年版での記載であるから、マンローは1890年にはイギリスの汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社のアンコナ号で船医を務めていたことになる。アンコナ号は、当時香港―横浜間を2週間に1度行き来していた定期船のうちの1艘で、香港から横浜までは1週間くらいで着いたから、マンローは船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。
マンローは自著 Soul in Being(1918年刊)の中で、おもに洋上とインド滞在中に執筆したものをまとめて1890年に日本で小冊子を出版したと書いているが、船医をしながら寄港地で出版することも可能であろう。そうこうするうちに、横浜の街が気に入ったのかもしれない。
1891年5月12日、横浜に到着したオキシデンタル&オリエンタル社の汽船オセアニック号に、マンローは船医ではなく、船客として乗り、横浜に上陸した。陸にあがったのである。船医として横浜に寄港したのを来日と考えれば、来日年は1890年であるが、マンローの日本での生活、人生が始まった年という観点からすれば、1891年ということになるだろう。
(伊藤泉美)