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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第91号
2006(平成18)年2月1日発行

表紙画像
企画展
創業の時代を生きた人びと
企画展
雑貨輸出入商・守屋道の歴程
資料よもやま話1
N.G.マンロー

マンロー来日の時期は?
横浜上陸後の足どり
〜ジャパン・ディレクトリーから〜
ジェネラル・ホスピタル 第8代院長説への疑問
資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀
閲覧室から
新聞万華鏡(22)
資料館だより

資料よもやま話1
N. G. マンロー
横浜での足跡をめぐって

N. G. マンローと横浜

  2005年は、N. G. マンロー(Neil Gordon Munro, 1863-1942)が三ツ沢貝塚(神奈川区)を発掘してから、ちょうど百年目にあたる。

  医師として、考古学者として、そしてアイヌ研究家としてのマンローの生涯については、多くの文献で紹介されてきた。近年では、横浜における考古学誕生のキーパーソンとしても、注目が集まっている。

  その一方で、マンローがいつ横浜の地を踏んだのか、横浜ではどこを拠点に活動していたのかなど、横浜時代のマンローについては、いまだ十分に明らかにされたとはいえない。とくにマンローの来日時期に関しては、記憶や伝聞にもとづいた推測でしか語られておらず、決定的な資料を欠いていた。

  そこで本稿では、日本に居住していた外国人の名鑑であるジャパン・ディレクトリー The Japan Directory および当時の英字新聞などの資料を検討し、横浜時代のマンローの足どりを辿るための基礎資料として提示したい。今後のマンロー研究の一助となれば幸いである。(横浜都市発展記念館  青木祐介)

マンロー来日の時期は?

  N.G.マンロー来日年については、これまで1890年(谷万吉「二風谷(にぶたに)コタンの故マンロー先生を偲ぶ(3)『道友』211号、昭和52年4月20日号ほか)、1890年代初頭(E. W. F. Tomlin, Tokyo Essay, 1968)、1892年(桑原千代子「横浜時代のN.G.マンロー博士」『郷土よこはま』76号、1976年)などの諸説がある。

  ジャパン・ディレクトリーによれば、マンローの記載は表1にあるように、1892年版が初出である。ディレクトリーは出版される前の年のデータに基づいているので、1892年版に名前があるということは、1891年にはすでに日本に在住していたと考えられる。

  そこで、マンロー来日時期の手がかりをもとめて、横浜外国人居留地で発刊されていたジャパン・ウィークリー・メイル紙の船客到着者リストを調べてみると、1891年5月12日に香港から到着したオセアニック号の船客の中にDr. Munroの名前が載っていた。これがN.G.マンロー、その人であろう。

  来日が1891年5月とすると、その前はどうしていたのかが気になる。そこで日本だけではなく、中国、朝鮮半島、フィリピンなどアジア地域の外国人の名鑑であるチャイナ・ディレクトリーを調べてみた。すると、1891年版 The Chronicle &Directory for China, Corea, Japan,the Philippines & c. for the year 1891(原本は香港歴史档案館所蔵)に「Munro, N.G., surgeon, P. & O. steamer "Ancona" China coast」と記されていた。


図1  マンロー到着の記事(下線部)Japan Weekly Mail 1891年5月16日号
マンロー到着の記事(下線部)

  来日以前のマンローについては、船医時代があったとされているが、この記述はそのことを具体的に裏づけている。1891年版での記載であるから、マンローは1890年にはイギリスの汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社のアンコナ号で船医を務めていたことになる。アンコナ号は、当時香港―横浜間を2週間に1度行き来していた定期船のうちの1艘で、香港から横浜までは1週間くらいで着いたから、マンローは船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

  マンローは自著 Soul in Being(1918年刊)の中で、おもに洋上とインド滞在中に執筆したものをまとめて1890年に日本で小冊子を出版したと書いているが、船医をしながら寄港地で出版することも可能であろう。そうこうするうちに、横浜の街が気に入ったのかもしれない。

  1891年5月12日、横浜に到着したオキシデンタル&オリエンタル社の汽船オセアニック号に、マンローは船医ではなく、船客として乗り、横浜に上陸した。陸にあがったのである。船医として横浜に寄港したのを来日と考えれば、来日年は1890年であるが、マンローの日本での生活、人生が始まった年という観点からすれば、1891年ということになるだろう。

(伊藤泉美)


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