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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第91号
2006(平成18)年2月1日発行

表紙画像
企画展
創業の時代を生きた人びと
企画展
雑貨輸出入商・守屋道の歴程
資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀
閲覧室から
新聞万華鏡(22)
資料館だより

資料よもやま話1
N. G. マンロー
横浜での足跡をめぐって

横浜上陸後の足どり
〜ジャパン・ディレクトリーから〜

  さて、1891年に横浜で生活を始めたマンローであるが、ディレクトリーから、すでにこの年には居留地で開業していたことがわかる。

表1は、横浜でマンローの名前を確認できる1892年版から1921年版までの、ジャパン・ディレクトリーの記載内容を整理したものである。ディレクトリーの情報は前年のものであることを念頭において、表を見ていただきたい。

  横浜上陸後のマンローは「外科医Surgeon」として山下居留地42番に開業するが、その翌年には海岸通り(Bund)10番の地に移っている。「Office and Residence」とあるように、当時は自宅で開業していた。

  1897年版からは専用住居を構えるようになり、まずは山手(Bluff)85番に、次いで1902年版からは山手91番に転居している。横浜における本格的な考古学調査の嚆矢である三ツ沢貝塚の発掘は、この91番時代におこなわれた。

  このとき91番には、マンローの他にエドウィン・デイビーズなる医師が住んでおり、1908・09年版から、2人が共同で病院を開業していたことがわかる。デイビーズの名は、1905年版から山手91番に登場するから、共同の医院はこの頃から始まっていたと思われる。

  また1907・08年版には、山手91番の他に、高島山30の住所記載があるが、これは高島台にある高島嘉右衛門邸内の借家のことである。この場所から目と鼻の先にある三ツ沢貝塚で発掘をおこなうのが、1905年秋から翌年にかけてであるから、おそらく調査の拠点として借りたのであろう。

  山手91番を離れたのちは、1年だけ山手88番Dに住み、その後、山下町39番の旧ヘボン邸を住居兼医院とする。ちょうど2番目の夫人とくと離婚した後の時期である。

  1916年版からは、再び山手に戻って谷戸坂通りの147番に居を構えている。1914年、マンローはファブルブラント家の令嬢と結婚しており、その結婚披露パーティーがこの新居でおこなわれている。

  1921年版を最後に、横浜でのマンローの記載はなくなる。1922・23年版では、マンロー夫妻の住所は信州の軽井沢504となっているが、マンローは1921年夏から軽井沢国際病院で診療を始めており、時期的に符合する。そして関東大震災を挟んで、マンローの活動の舞台は横浜から軽井沢へと移っていくのである。

ジェネラル・ホスピタル  第8代院長説への疑問

  以上、マンローの横浜での足どりをざっと眺めてみたが、腑に落ちないのは、同じディレクトリーに掲載されているジェネラル・ホスピタルの項に、マンローの名前がほとんど見出せないことである。

  マンローは、1893年から関東大震災が起きた1923年まで、同病院の第8代院長を務めたとされる(桑原、前掲稿)。しかし、表1に記したように、マンローの名前がジェネラル・ホスピタルの項に登場するのはわずかに5年であり、まして「院長 director」という記載はどこにも出てこない。

  「1893年第8代院長に就任」説の根拠は、ブラフ・クリニック(旧ジェネラル・ホスピタル)所蔵の銘板に、1893年の年号とともにマンローの名前が刻まれている点にある(銘板の全文は小玉順三『横浜医療事始め』2002年、に収録)。

  しかし、この銘板に刻まれているのは幕末から戦後までの「貢献者名Roll of Honour」であり、ジェネラル・ホスピタルの歴代院長ではない。そもそもディレクトリーには、病院を運営する委員会の名前はあっても、院長というポストは登場しない。8代院長というのは、マンローの名前が上から8番目にあることからきた単純な誤解なのではないか。銘板についても、あくまで戦後の編集による2次資料として扱う必要があるだろう。

  そこで、再度ジャパン・ウィークリー・メイル紙を紐解いてみると、ジェネラル・ホスピタルの年次報告のなかに、マンローの名前を見つけることができた。

  初出は1896年11月14日号の記事で、マンローがメクル医師と共同で診療にあたっていることが記されている。翌年発行のディレクトリーでマンローの名前が初めて病院の項に登場するから、時期的にも合っている。

  そして1900年10月20日号では、資金繰りに行き詰った病院が経済支援を呼びかける記事のなかで、病院の施設拡張や医療設備のための総額7、8千ドルの資金を工面した恩人として、マンローに対する謝意が記されている。

  この記事では、マンローは1899年の11月からメクルと共同で病院の経営にあたり、1900年の2月に辞職したと記されている。1899年というのは、前述の1896年の誤記と思われるが、1900年に辞職したとすると、ちょうど翌年のディレクトリーからマンローの記載がなくなることと合致する。ただし、1904年版では「住み込みの外科医House Surgeon」として再登場しているから、のちに病院に復帰した可能性もあるだろう。

  しかし、三ツ沢貝塚発掘以降、マンローの考古学方面の活動が活発になることを考えれば、ジェネラル・ホスピタルとの関わりは、ほぼディレクトリーの掲載どおり、1896年から1903年頃までと考えてよいのではないだろうか。

(青木祐介)

  本稿作成にあたっては、岡本孝之氏、出村文理氏から、多くのご教示を得た。記して感謝いたします。


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