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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第91号
2006(平成18)年2月1日発行

表紙画像
企画展
創業の時代を生きた人びと
企画展
雑貨輸出入商・守屋道の歴程
資料よもやま話1
N.G.マンロー
資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀

大豆戸の伊東家(坂下)
坂下商店と味噌醸造
第一次大戦前後の横浜近郊農村
戦時下の坂下
閲覧室から
新聞万華鏡(22)
資料館だより

資料よもやま話2
ある「田舎商家」の半世紀
(大豆戸の伊東家とその資料)

東横線開通と恐慌下の坂下商店

大正15年伊輔は次男の秀輔に家督を相続した。秀輔は日露戦争の際に志願して陸軍に入隊、のち歩兵少尉となり、除隊後は大豆戸に戻り、在郷軍人大綱村分会長や青年団幹部に就いた。ちょうどこの頃、大豆戸をはじめ大綱村は大きな転機を迎えていた。すなわち大正15年東京横浜電鉄の丸子多摩川〜神奈川間が開通し、その沿線では敷設前から鉄道敷設・宅地造成用地の買収が始まり、地価騰貴が起こった(大豆生田稔「都市化と農地問題」、前掲『横浜の近代』)。地価の高騰は、農産物価格下落・農村労働力流出・震災被害・小作料減免要求などに苦しむこの地域の地主を大きく刺激した。大正14年の「家運」は次の通り述べる。

本年我大綱ニ特筆スベキモノハ東京横浜電鉄ノ開通ナリトス、之レガ為大綱ニ入リシ金額容易ノモノニ非ス、加フルニ綱島太尾菊名谷三万坪ノ住宅地ヲ買入レ為メニ農村ノ地価ヲ高上シ困憊セル農家ヲシテ干天ノ滋雨タラシメ、或者ハ震災ニ依ル家屋ノ新築トリ、又ハ復旧ヲ早カラシメ、兎ニ角震災后小作争議ニ加フルニ又争議、村費ハ益々甚シク、字費或ハ箇人ノ費用モ神社又ハ寺院ノ復旧出費甚シキ折、地主ヲシテ復活ヲ早カラシメン効亦大ナリトス、買収地価綱島坪四円五十銭、太尾四円、菊名七円乃至九円、我祖先よりノ所有菊名も亦全部敷地及都市ニ買収セラル約二反歩

「家運」(大正7年の箇所)
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「家運」(大正7年の箇所)


伊東秀輔(伊東家所蔵アルバムより)
伊東秀輔(伊東家所蔵アルバムより)

  このように東横線開通を契機として大綱村(昭和2年に横浜市に編入)では耕地の潰廃が進むが、その一方で都市向けの商品作物の栽培も盛んに行われていた。大豆戸でも昭和5年2月に大豆戸町蔬菜組合が発足(組合員49名)し、伊東秀輔が初代の組合長に就いている。この地域では胡瓜と茄子の栽培が盛んで、昭和6年と7年に蔬菜立毛品評会を開催している(「蔬菜組合規約」)。昭和11年時点で、まだ伊東家は40人近くの小作人を抱えていた(「昭和11年度田畑年貢調」)。

  東横線開通の翌年(昭和2年)、金融恐慌により再び日本経済は不況を迎えるが、「家運」は、「此度の我家々計の発展ハ電車の開通ニ依リ十年以内ニハ幾分良ニ向フベシト楽観」している。翌3年には奉公人の文三に酒店、横山吉太郎に米穀商を開店させるなど、恐慌下にあっても坂下の経営は順調のようである。昭和5年の昭和恐慌により、鐘紡・三菱鉱業・大日本ビールなどの保有株の暴落に直面しながらも、白米商の業績は好調で「価格下落スルモ差当リ利益ニ大差ナシ」としている。伊東家では、東横線の開通に加えて、白米商・荒物商、小作、株式、土地、山林など多様な収入源を持っていたことから、昭和初期の恐慌のリスクを緩和することができたようである。

戦時下の坂下

  昭和6年から10年までの伊東家の経営については「家運」の記載が無いことから一切不明である。日中戦争が始まった昭和12年、「荒物部」を廃止している。その理由は「行商多ク一年合計ノ通帳ヲ以テシテハ甚だ不利ナル故ナリ、現金売ト掛売ヲ差別シ得ズ、尚手少ニテ女共ヲ以テ営業スルモ労多クシテ実利共ハズ」とあり、坂下商店は白米部のみとなった。

  翌13年には、字桜田の土地を工場用地として1坪6円50銭で天野鉄工場と東海鉛管に売却している。日中戦争が長期化するなか、工業化の波は大豆戸のような内陸部にまで及んできていたのである。

  そうしたなか、この年の6月大洪水が鶴見川流域を襲い、深刻な被害をもたらした。伊東家でも「年貢米ノ如キモ四、五俵ニ過ギス、居山南北樹木多数損害ハ製材ニシ、不日ノ用ニ供ス、大小参百本ヲ切取ルノ止むナキニ至」った。

今や時局は益重大性を加ふと共に食料の増殖一層緊要なるは茲に吾等の絮説を須たさるなり、而して我か鳥山川沿岸、菊名、大豆戸、太尾、篠原四町の耕作地弐百町歩余の低地は毎年出水の被害を蒙り、猶昨十三年は数度大洪水の為め収穫殆と皆無に帰するの惨状を呈せるを以て現地居住農民の失望落胆は実に言語に絶し、相率ひて工場労務に転する者続出せるか故、今に於て宜しく防水の方法を講し耕作者に安心を与ふる能はされは天与の沃野も遂に荒廃に委するの外なく寔に寒心に堪へさるなり、庶く県当局に於かれて宜しく其実況を御調査の上特別の御詮議を以て至急適当の除外法を実施せられ1日も速に匡救の実効を奏する様御配慮相成度、此段及陳情候也

  大豆戸地域では、近世以来、鶴見川と鳥山川の度重なる氾濫で農業生産が停滞気味で、排水機能の拡充は喫緊の課題であった。この翌年から昭和20年にかけて伊藤秀輔は、神奈川県と東横電鉄からの助成・寄附を得て、鳥山川から横浜線菊名駅附近に流下する排水路(根川)の改修工事を完成させた。

  戦時中の「家運」は、株価の乱高下に戸惑いながら、息子・直爾の戦死、娘の結婚などで出費が嵩む様子、金属供出に応じる様子、止む無く三菱系の株券や自宅の物置を売却する様子など、伊東家の窮状を伝えている。更に終戦から間もなく、当主の秀輔を失い、続いて農地解放をはじめ戦後直後の混乱のなか、「家運」は筆を終えている。

(松本洋幸)

  本稿執筆にあたり、所蔵者の伊東美佐子様、高橋佳江様に御厚配を賜りました。深謝申し上げます。


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