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館報「開港のひろば」バックナンバー


ペリー艦隊がつけた地名

 ペリー艦隊は「アメリカ碇泊地」ばかりでなく、測量した先々で名前をつけた。

 下の海図にもそのいくつかがみられるが、名前の付け方にはいくつかの類型がみられる。たとえばペリー島(猿島)やウェブスター島(夏島)は人名にちなんだものである。ペリーは当然ペリー提督、ウェブスターは、ペリーの前任者オーリックに日本遠征を命じた国務長官ウェブスターに由来するものだろう。

 岬の名前は出来事にちなんでいる。たとえば条約岬(本牧岬)は、横浜で条約交渉がおこなわれたからであり、ルビコン岬(旗山崎)は古代ローマのシーザーが「さいは投げられた」と言って渡ったルビコン川にちなんでいる。

 湾にはほとんどペリー艦隊の艦船の名がつけられている。ミシシッピ湾、ポーハタン湾、サスケハナ湾といった具合である。

 ペリー艦隊が命名した地名はその後消えてしまったが、ミシシッピ湾(根岸湾、海図の中央部分)だけはその後も長く使われることになる。

 5年後の1859年(安政6)、横浜が開港されて外国人居留地が設けられ、その後1864年(元治元)、山手から根岸の丘にかけて外国人遊歩新道が開かれた。丘の上からは根岸村や本牧岬が一望され、はるか房総半島や三浦半島まで霞んでみえた。この風光明媚な根岸湾が、ミシシッピ・ベイの名で親しまれたのである。外国人向けに販売された着色写真にも、根岸湾はミシシッピ・ベイと記された。

 なお、隊員の日記について詳しくは当館新刊の『ペリー来航と横浜』をご参照ください。

(伊藤久子)

「開港のひろば」第84号
2004(平成16)年4月28日発行

企画展
開国150周年「ペリー来航と横浜」
企画展
「ペリー来航と横浜」隊員の日記や海図から

モーリー大尉の自筆日記
「アメリカ碇泊地」
ボートで測量
プレブルの日記
横浜に上陸
資料余話
ドン・ブラウンの上司、W・フライシャー
資料よもやま話1
ペリー来航前夜の江戸防衛計画
資料よもやま話2
横浜資料の宝庫−館蔵諸文書
閲覧室から
新聞万華鏡(15)
関口昭知と新聞
資料館だより

『ペリー艦隊日本遠征記』第2巻収録の海図「江戸湾西岸」(部分)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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