今年はペリー艦隊が横浜に来航してからちょうど150年になります。
1853年春、アメリカ東アジア艦隊の拠点である中国沿岸に到着したペリーは、艦船が揃わないこともあって、日本遠征を二段構えで行う作戦をたてました。その年夏の日本訪問は「予行演習」と考えており、久里浜で大統領親書を渡し翌春の再来航を予告できたのは上上の首尾だったことでしょう。
翌嘉永7年(1854)一月、ペリー艦隊は七隻の編隊で出現し、柴村(横浜市金沢区)の沖合に碇泊します。応接の場所を決定するのに2週間ももめることになりますが、結局、横浜で決着しました。江戸近辺であることはもちろん、艦隊をそろえて碇泊でき、上陸地が大砲の射程距離にあること、汽車の模型などの贈り物を展示できる広い場所があることなどがペリーの条件でした。
2月10日(陽暦3月8日)、ペリー一行は横浜に上陸し、浜辺に急造された応接所に入りました。現在、当館や神奈川県庁が立っているあたりです。
その日を初回として4回の会談と書面による交渉で、3月3日(陽暦3月31日)に日米和親条約が調印されました。日本が開国の第一歩を印した日といえるでしょう。
この交渉の合間にはさまざまな交流の場面が展開されました。模型の汽車や電信機など贈答品のやりとりや宴会などの接待外交も展開されています。また、交渉や警護にあたった武士ばかりでなく、庶民も見物に集まりました。
ペリー来航は、内外の多数の人びとがはじめて接触した前代未聞の出来事であり、人びとはおびただしい記録を残し、情報があふれでました。日本人が受けとめた「ペリー来航」は絵巻、瓦版、日記などに記録され、他方、アメリカ人は「日本遠征」を写真、石版画、遠征記などに残しました。当館ではこうした資料を収集し、公開しています。
今回の展示はそのような館蔵資料を中心に、横浜に焦点をあてて、ペリー来航をふりかえります。
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