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館報「開港のひろば」バックナンバー


資料よもやま話1
ペリー来航前夜の江戸防衛計画


残された写本から

 横浜開港資料館には、ペリー来航に関するさまざまな記録が保存されている。その多くは嘉永6年(1853)と翌年のペリー来航に際して作成されたものであるが、なかにはペリー艦隊が来航する以前に作られたものもある。ここで紹介する史料もそうした古記録で、嘉永2年(1849)に海防を担当する幕府目付が作成した江戸防衛計画書の写しである。

 写しが作成された経緯や筆写した人物については分からないが、表紙には「外国船渡来・亜国使節応接・海外行書類」と記されている。また、表紙の裏には横浜市図書館の朱印があり、その横に「昭和28年、横浜歴史年表編纂室へ移管」とある。おそらく、この古記録は横浜市図書館の旧蔵資料であり、昭和26年(1951)に刊行された横浜歴史年表の編纂室に昭和28年に移管されたものである。さらに、この記録は、昭和29年に設置された横浜市史編集室の所蔵資料となった後、昭和56年に横浜開港資料館が開館すると同時に当館の所蔵資料となった。

 また、この古記録には江戸防衛計画書のほか、いくつかの記録が収録されているが、防衛計画書以外の記録も幕末期に記された外交や防衛に関する文書の写しばかりである。残念ながら、防衛計画書を含めこれらの記録はすでに他の史料をもとにしてさまざまな史料集に収録されている。しかし、この記録が外交や防衛に関する貴重な資料を多数収録していることは間違いない。


江戸防衛計画が作られた背景

 次に、古記録に収録された防衛計画書については、すでに針谷武志氏が『江東区文化財研究紀要』2号で分析を加えており、防衛計画が作られた背景が分かっている。針谷氏によれば、計画が作成された当時、幕府は江戸に接近する黒船をいかに阻止するかに苦慮していた。すでに弘化3年(1846)閏5月にはアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが江戸の喉元の浦賀に2艘の巨艦を率いて来航し、幕府は危機感を強めていた。また、計画書が作成された直前の嘉永2年(1849)閏4月には、イギリス船マリーナ号が江戸近海を訪れていた。

 そのため、今後も予想される黒船の来航に対し、この計画書が作成されたのである。計画書は嘉永2年12月(当館所蔵の写本には嘉永3年3月と記されているが、これは間違いである)に老中阿部に提出され、計画書に基づき江戸防衛計画が作られていった。計画の内容については後に詳しく述べるが、幕府は江戸を防衛するために60以上の大名を動員しようとしており、参勤交代などで江戸に出ている大名を総動員しようとした。

「開港のひろば」第84号
2004(平成16)年4月28日発行

企画展
開国150周年「ペリー来航と横浜」
企画展
「ペリー来航と横浜」隊員の日記や海図から
資料余話
ドン・ブラウンの上司、W・フライシャー
資料よもやま話1
ペリー来航前夜の江戸防衛計画

江戸防衛計画が作られた背景
古記録を読む
資料よもやま話2
横浜資料の宝庫−館蔵諸文書
閲覧室から
新聞万華鏡(15)
関口昭知と新聞
資料館だより

 この時、動員が予定された60以上の大名をすべて紹介するわけにはいかないが、針谷氏の研究によれば、幕府は、外様大藩を芝・高輪周辺に、外様小藩を深川(東京都江東区)の富岡八幡宮へ、親藩と譜代有力藩を江戸城内の要所や浜御殿および築地本願寺へ、譜代小藩を永代橋周辺に詰めさせたようである。また、品川周辺に下屋敷や抱屋敷を持つ国持外様大名をその屋敷ごと動員することになっていたから、親藩・外様・譜代を問わず、さまざまな大名が江戸防衛に従事することになっていた。





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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