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館報「開港のひろば」バックナンバー


ボートで測量

 モーリーの日記は、その日の天候から始まり、気圧計・温度計の数字を記して終わるというのが定例となっている。ほんの数行の日もあり、数頁にわたっている日もある。

 アメリカ碇泊地に投錨した翌々日の2月15日(陰暦1月18日)、モーリーらは測量を開始した。人びとは友好的に思われたと、彼は日記に記している。

 翌16日、モーリーはベント、プレブルらと6隻のボートに分乗して、朝10時30分、西岸の測量に出かけた。岸から1マイル半のところまで近づき、いくつかの村を見ている。人びとが岸辺から上陸するよう身振りで招いたけれど、命令が出ていて上陸はできなかった、と書いている。この日、小柴の磯亀木の鼻(?)に乗り寄せて落書きをした異人がいたと日本側の記録に残っているが、モーリーの日記には何も書かれていない。


プレブルの日記

 同じ2月16日のことは、マセドニアン号のプレブル大尉の日記にも詳しく書かれている。この日記は『日本の開国』The Opening of Japan というタイトルで1962年に公刊された(邦訳はない)。プレブルの日記は、ペリーが出した日記提出の命令を嫌って、妻あての手紙を装って書いたというユニークなものだが、内容も率直でなかなか面白い。

 プレブルによれば、測量ボートの上の崖は終日、好奇心いっぱいの老若男女で込み合い、上陸するよう手振り身振りで招き、プレブルらがハンカチを振ったのに応えて、ネックレス(?)を振ったという。また、数隻の漁船がボートに近寄って来たので、ボートの乗組員たちはビスケットや煙草を米と交換したりして、「日本と交易を開始した」とも記している。

 二人の日記はいずれも好奇心旺盛な村人たちの姿を生き生きととらえている。


横浜に上陸

 ペリー艦隊はアメリカ碇泊地からさらに北上し、測量を続けた。ようやく応接地が横浜に決まったとき、艦隊はすでにその沖合に達していた。海図の上部にヨコハマ・ベイとあって、7隻の投錨地がみえる。

 3月8日(陰暦2月10日)の横浜上陸の日、ペリー一行の華々しさに比べると、日本側の軍隊は華麗さも力強さもなくて失望したとプレブルは記している。また、日本側が用意した昼食も皆失望して、饗応が終わる前にいやになってしまったという。

「開港のひろば」第84号
2004(平成16)年4月28日発行

企画展
開国150周年「ペリー来航と横浜」
企画展
「ペリー来航と横浜」隊員の日記や海図から

モーリー大尉の自筆日記
「アメリカ碇泊地」
プレブルの日記
横浜に上陸
ペリー艦隊がつけた地名
資料余話
ドン・ブラウンの上司、W・フライシャー
資料よもやま話1
ペリー来航前夜の江戸防衛計画
資料よもやま話2
横浜資料の宝庫−館蔵諸文書
閲覧室から
新聞万華鏡(15)
関口昭知と新聞
資料館だより

 3月27日(陰暦2月29日)のポーハタン号上の饗宴の日も、プレブルの日記は詳しい。日本人が食事の残りを懐紙に包んで持ち帰る風習はかなり印象深いものだったとみえて、さまざまな日記に記されているが、この日プレブルが見たのは、チキンを丸ごと包んで着物に入れて帰る姿だった。この日はすべて楽しく活気にあふれた光景で、アメリカを離れて以来、これほど心から笑ったことはない、と彼は記している。

 その4日後の3月31日(陰暦3月3日)、条約は調印された。「…調印には誰もが満足だった。熊おやじ〔ペリー〕だって、笑い方を知っていれば、きっと笑っただろう」とプレブルはペリーの謹厳さを皮肉っている。





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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