日本のガンベッタ
高須塾を辞した後、文平(亮弼)がどのような教育を受けたのかは明らかでない。高須塾時代の明治6年、郷里の鶴見にも学制に基づく小学校弘明学舎が開校したが、亮弼が同校に入学した様子はない。佐久間家蔵書中の法律書、翻訳書には退塾後の刊行物が多く、自由民権運動とその思潮の高まりの中で彼が求めたものと思われる。少し後のことになるが、明治16年の日記(第1集に収録)には、東京や西多摩郡、上州伊勢崎に住まう旧友との年賀交換、当地の小学校教員との往来のほか、神奈川在の岡本宗次郎を訪問し「農業ノ不振ヲ慨嘆シ、或ハ当郡ノ志気ノ活発ナラサルヲ浩嘆シ、時論慨切二人対座日ノ落ツルヲ忘」れ(1月16日)、横浜税関勤務の二階堂民治が来訪、農事や外国商法、或いは現在審理中の福島事件裁判などを語り、「旧語歓話縷々幼時日無心ノ交誼深カリシ杯夕刻迄談話」した(8月28日)。上京の帰途、銀座の博聞社でベンサム著・島田三郎訳『立法論綱』や『類聚法規』を購入した(1月31日)。遠近の友人達と通信や意見交換を続けながら、翻訳書や法律書を購読し、独学で知識・学問の摂取に努めたのかも知れない。やがて亮弼は立憲改進党に入党する。16年正月、新聞の党員名簿欄で知った友人が、「君ヨ日本ノガンベッタトナリ」、日本国民をして真理自由の民たらしめよとの年賀を寄せた(1月7日)。ガンベッタはフランスの政治家、首相。普仏戦争では共和政府内相として最後まで抗戦し、熱気球でパリを脱出した愛国的英雄である。前年8月15日付け、改進党幹部の島田三郎の書簡が残っている。島田は、入党を希望した亮弼に、党員が巡回した時手続をとるよう助言し、「最早同党員と相心得居候」と述べ、亮弼を感激させた。亮弼の自己形成、非政友の政治的立場の基礎は、小年時の高須塾とその時代にあったのではないだろうか。
なお、学制に伴う小学校の開設については『佐久間権蔵日記』第4集の解題を、また本誌第65、68号の関連記事を併せて参照していただきたい。
(佐藤孝)
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「開港のひろば」第77号
2002(平成14)年7月31日発行

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