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館報「開港のひろば」バックナンバー


アアナツカシキ狸穴町

 大正4年4月9日の午後、55歳の権蔵は、商用と知人の入院見舞いに上京した帰り道、「十一才ノ五月より十四才ノ十二月迄」3年半余を過ごした故地の発展ぶりを見ようと、狸穴町、永坂町、麻布十番、新門前町の周辺を徘徊した。40数年をへて訪ねた土地は「悉ク旧体ヲ脱シ従テ旧友ノ家ハ皆変更シ分明ナラス、只依然タルハ処々ノ石垣ニテ」、「飛田ノ家ハ旧ノママニ見受ケラレ、入口ノミ東向カ南向ニカハリヲリテ、此ノ建物ヲ見シトキハ四十三四年前ノコトヲ遂想シ実ニ感慨無量、低回去ルニ忍ヒサリシ、又旧師高須先生ノ処ハムネワリ長屋ト茅屋アリテ何共云ヘヌ感アリ」。町なかに遠い少年時代の面影を探し、記憶と現実との街並みや風景の違いざま、変貌ぶりを朱筆で詳述している。

 現在、佐久間権蔵の当時の寄留届控えが残っている(写真(2))。明治4年6月付、当月より「学問修行ニ付寄留」のこと、寄留先は麻布狸穴の飛田歓吉方、佐久間文平(後の亮弼、権蔵)は当年11歳とある。飛田は、外国人警固や江戸市中の警備に従事した幕府別手組の役人だったが、佐久間家が文平の寄留先に選んだ事情、また飛田については未詳である。師匠の高須は、明治6年「家塾開業願」によれば、浜松県士族で当年63歳の儒学者、学科は習字・筆道とある。しかし、書道に止まらず四書五経を教えていたことは、吉田が紹介した『孟子』三と同じ表紙カバーを付けた『校正音訓五経』(明治3年、菊間藩蔵梓。その数冊には「高須」「大三区小7区」「丈夫之心事」「博学之賢者能耐審問之」の文字、鬼や武者の戯画、数字計算など、同様な書き込みがある)、『増訂経典余師』(文久元年)など、佐久間家蔵書に残るテキストによっても明らかである。文平は、多感な少年時代の3か年半、老儒学者から儒学の手ほどきを受けた。

 もう1冊、表紙に「雑誌」と墨書された写本を紹介したい。表紙左下に同じく「佐久間姓」、裏に筆記体で「Sakuma Bunpei」、表紙の裏には「明治五年一月十七日於芝神明前三島町求之」とある。写本は縦18.8cm、袋とじ、10行罫紙の小冊子で、筆跡は表紙の題名、署名、本文とも同一人物のものと思われる。内容は、8年9月左大臣島津久光の三条太政大臣弾劾上書、同年10月12日参議板垣退助の内閣・省卿分離上奏、7年10月18日福島県の教師浅岡一の建白書、5年11月28日の徴兵詔書、建白書差出方心得、9年2月26日日朝修好条規、洋学の科目、歌会始めの御製などである。君主専制を改め君民同治と為すべき旨の浅岡建白書は、その前文とも『日新真事誌』同月30日付けに掲載された記事そのものである(『明治建白書集成』4巻)。本書は、東京遊学中に近所の店で求めた帳面に、文平がその後、新聞などから関心ある記事を筆写し、「雑誌」と題書したものかも知れない。その内容からは、この時期の彼の国政や時事問題、自由民権運動の動向等に対する強い関心の在り処を窺わせる。

「開港のひろば」第77号
2002(平成14)年7月31日発行

企画展
「異国船の来航と海図
−欧米の日本測量探査史」
企画展ハイライト
展示余話1
ランバート氏のスポーツ写真
展示余話2
ペリーの顔いろいろ
資料よもやま話
地方民権青年の教育履歴
−佐久間権蔵の東京遊学とその蔵書−

泣イテ読ム蘆騒ノ民約論
日本のガンベッタ
閲覧室から
新聞万華鏡(9)
資料館だより

(2)佐久間文平(のちの権蔵)の寄留届控え





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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