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館報「開港のひろば」バックナンバー


新聞万華鏡(9)

『仮名読新聞』と守屋正造

守屋正造(『かなよみ』576号 明治11年1月27日)


 『仮名読新聞』は、明治8(1875)年に仮名垣魯文の編集で横浜毎日新聞会社が創刊した、明治時代の代表的な小新聞の一つです。編者である魯文については、多くの研究書が取上げていますが、魯文を取り巻く人々の1人であった守屋正造についてはほとんど知られていません。この人物は『仮名読新聞』の横浜での販売店(売捌所)をしていましたが、新聞を見ていくと正造についていくつか記事がありますので、紹介したいと思います。

 守屋正造は、初めは高島町二丁目の住所で新聞に載っています。明治9年2月21日の記事には、高名写真入辻占新聞御菓子(なだかきしゃしんいりつじうらしんぶんおんかし)「浜手箱」の販売広告を載せています。21日から3日間だけ売り出した、新聞にちなんだ菓子だったようです。

 上の挿絵は、明治11年1月27日の『仮名読新聞』の改題紙『かなよみ』に掲載されたものです。「東京より着次第に直さまお得意へ配達仕候。且御注文の節は郵便はがきにて御報知被下候はば翌朝よりすぐと配達可申上候」と、この時期は太田町四丁目77番地に移転し、『仮名読新聞(かなよみ)』と魯文が開珍社から発行した雑誌『魯文珍報』を扱っていたことがわかります。新聞のほか西洋酒類各種の販売もしていました。また同年には、仮名読新聞社中開珍社が発行した割烹、茶亭、芸妓等の人名録、『会席招猫』の販売人(売捌人)にもなっています。

「開港のひろば」第77号
2002(平成14)年7月31日発行

企画展
「異国船の来航と海図
−欧米の日本測量探査史」
企画展ハイライト
展示余話1
ランバート氏のスポーツ写真
展示余話2
ペリーの顔いろいろ
資料よもやま話
地方民権青年の教育履歴
−佐久間権蔵の東京遊学とその蔵書−
資料館だより

 その後、明治12年12月、魯文が『いろは新聞』を発行し、翌年『かなよみ』を離れると、販売店は『いろは新聞』の支局になったようです。明治13年1月16日の『かなよみ』には、「弊店儀今般当いろは新聞支店仕候間何卒是迄通り御愛顧御購覧之程偏に奉願候。但し横浜市内御注文次第直に無遅延様配達仕、且郵便税は一切受不申候」という広告を出しています。

 さらに同年3月16日の『かなよみ』には、馬車道弁天通四丁目70番地へ転居する旨の広告を出しています。

 さて、当館に寄託される予定の堤真和家文書の中に、守屋正造が社長を務めた開進社の「開進社支払計算表」という資料があります。明治13年1月から5月までの開進社の支出をまとめたものです。開進社は、いろは新聞支局と同じ横浜弁天通四丁目70番地に仮本局を設けています。会員数は約200名で、本屋、理髪商、経師商、料理商など様々な職業の人々がいます。資料の内容を見ると、1月には「勧善集誌」という本(雑誌)の印刷製本2円10銭が支払われていますから、この会社は「勧善集誌」という本(雑誌)を刊行する会社だったのかもしれません。

 このほか、当館の五味亀太郎文庫の中には、明治14(1881)年に正造が発売した『横浜細精記』があります。これは横浜商人の人名録で、職種別に住所と姓名が書かれています。編集兼出版人は静岡県士族の近藤道治で、正造は吉田町の歌川国松と共に発売元に名前を連ねています。

(上田由美)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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