その後の福本柳一
郡役所廃止後、福本は神奈川県庁に理事官として入る。ここで庶務課・社会教育課等を含めて八課長をつとめる。神奈川県在官中の昭和5年7月、川崎大師平間寺境内にあった清尚閣で旧橘樹郡長・郡会議員・町村長等が集まって懇親会が開催された。この時の会合は、郡役所廃止後5年が経過し、橘樹郡もその一部が横浜市や川崎市に編入されるなどして、「なつかしい同志の会合の機会がなくなったので」、旧交を温めようという声が挙がって開催されたものである。この時の発起人には、上原喜作・飯田助夫・石井泰助・小林五助・小野重行・都倉義知・原文次郎・小宮隆太郎・佐久間権蔵等、往年の町村長や郡会正副議長等とともに、福本柳一も名を連ねている(当館蔵「佐久間亮一家文書」)。【写真5】はその時の集合写真である(福本は前列右から7人目)。
約8年半に及ぶ神奈川県庁勤務の後、福本は、昭和10年福井県、さらに昭和12年新潟県に警察部長として赴任し、翌13年に内務省軍事扶助課の初代課長に就任した。翌14年同課の厚生省移管後、内務省土木局道路課長を経て、内務省図書課長、内閣情報局第四部長となる。その後昭和17年愛媛県知事、18年東京都経済局長、19年埼玉県知事となり、ここで終戦を迎える。その直後、今度は愛知県知事として占領下の行政を担当した。戦後は自転車協議会理事長、大栄漁業株式会社社長をつとめた後、全日空の創業にも携わり、副社長を務めた。平成3年2月1日、94歳の生涯を閉じた。
貴重な情報・資料提供を頂きました福本一彦様に末尾ながら御礼申上げます。
(松本洋幸)
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