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館報「開港のひろば」バックナンバー


展示余話
最後の橘樹郡長・福本柳一


写真1  橘樹郡役所職員
(前列左から三枝技手、川口技手、井上技師、福本、端山主席、橘川町村監督主任、和田郡視学、池谷主任)
写真1


 橘樹郡には一六代15人の郡長が在勤したが、企画展示「橘樹郡役所ものがたり」の会期中、最後の橘樹郡長・福本柳一のご長男・福本一彦氏より、新たな資料提供を受けた。福本柳一は自叙伝『私の人生行路』を残している。橘樹郡長在任中の記事は十数頁に過ぎないが、当時の郡長の執務状況・慣習、あるいは廃止直前の郡役所の様子などをよく伝えている。ここでは若干の補足説明を交えながら、廃止直前の橘樹郡役所の日常風景をスケッチして見ようと思う(引用文中断りのないものはすべて『私の人生行路』からの引用)。

「開港のひろば」第76号
2002(平成14)年4月24日発行

企画展
「100年前の旅行アルバム
−外国人が撮ったニッポン−」
企画展ハイライト
展示余話
最後の橘樹郡長・福本柳一

地域との結びつき
橘樹郡役所の終演
その後の福本柳一
資料よもやま話
「国内最古のガス管」発掘ルポ
資料館だより

 福本柳一は明治29(1896)年8月10日、岡山県上房郡川面村(現高梁市)の農家の次男として生れた。高梁中学、六高(現岡山大学)、東京帝大と進み、文官高等試験合格後、司法省に入る。最初の勤務地は横浜地方裁判所で、司法官試補であった。その後東京地方裁判所へ移り、震災後の復興事業を担当する帝都復興院(後復興局)に入り、大正14(1925)年10月1日、第16代目の橘樹郡長に就任した。若干29歳であった。


赴任風景

 主席郡書記の端山重吉氏が、東京の役所まで迎えに来てくれた。モーニング姿で国電に乗り、役所へは二挺車で赴いた。郡役所は街の中心部にあり、門の両側にはおよそ24、5名ほどの職員が整列して迎えてくれた。

 当時橘樹郡役所は、川崎市砂子(現在の川崎区砂子二丁目、JR川崎駅から徒歩数分)の位置にあった三代目の庁舎である。付近は東海道沿いの繁華街であった。当時の郡役所には郡書記のほか、農業・土木などの専門職員である技手・技師、ほかに雇などあわせて20名以上がおり、女性も在勤していた【写真1】。彼等の大部分は郡役所廃止後は、県庁や町村役場に就職し、中には神奈川県・横浜市の中枢を担う吏員となるものもあった。

 郡役所のそばには郡長の官舎があった【写真2】。福本の前の二代の郡長(13代・武田巌作、14代・伊藤匡義)はいずれも病没しており、郡役所職員から「縁起が悪いから住まない方がよい」という忠告を受けていた。福本は、社寺兵事課主任の池谷良助と相談して、稲毛神社の中村宮司に依頼してお祓いをしてもらってから、官舎に入居した。長男一彦氏はこの官舎で誕生されており、柳一は「縁起直しとなった」と書いている。


写真2  橘樹郡長官舎(福本柳一とその家族 大正14年)
写真2





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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