福本柳一は明治29(1896)年8月10日、岡山県上房郡川面村(現高梁市)の農家の次男として生れた。高梁中学、六高(現岡山大学)、東京帝大と進み、文官高等試験合格後、司法省に入る。最初の勤務地は横浜地方裁判所で、司法官試補であった。その後東京地方裁判所へ移り、震災後の復興事業を担当する帝都復興院(後復興局)に入り、大正14(1925)年10月1日、第16代目の橘樹郡長に就任した。若干29歳であった。
赴任風景
主席郡書記の端山重吉氏が、東京の役所まで迎えに来てくれた。モーニング姿で国電に乗り、役所へは二挺車で赴いた。郡役所は街の中心部にあり、門の両側にはおよそ24、5名ほどの職員が整列して迎えてくれた。
当時橘樹郡役所は、川崎市砂子(現在の川崎区砂子二丁目、JR川崎駅から徒歩数分)の位置にあった三代目の庁舎である。付近は東海道沿いの繁華街であった。当時の郡役所には郡書記のほか、農業・土木などの専門職員である技手・技師、ほかに雇などあわせて20名以上がおり、女性も在勤していた【写真1】。彼等の大部分は郡役所廃止後は、県庁や町村役場に就職し、中には神奈川県・横浜市の中枢を担う吏員となるものもあった。
郡役所のそばには郡長の官舎があった【写真2】。福本の前の二代の郡長(13代・武田巌作、14代・伊藤匡義)はいずれも病没しており、郡役所職員から「縁起が悪いから住まない方がよい」という忠告を受けていた。福本は、社寺兵事課主任の池谷良助と相談して、稲毛神社の中村宮司に依頼してお祓いをしてもらってから、官舎に入居した。長男一彦氏はこの官舎で誕生されており、柳一は「縁起直しとなった」と書いている。
写真2 橘樹郡長官舎(福本柳一とその家族 大正14年)

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