橘樹郡役所の終焉
福本は在任期間はわずか9ヶ月間で郡役所廃止を迎える。郡役所廃止を前にして、彼は郡内町村長に対して町村合併の促進を迫っている。当時橘樹郡内は14ヶ町村に分かれていたが、彼はこれを町村合併により半減することを企図していた。具体的には、南部の田島町を川崎市に編入、中部の高津村は橘村と中原村に合併、北部の稲田村は生田村と合併、さらに大綱村は旭村、鶴見町と合併、城郷村と保土ヶ谷町を合併する、などというものであった(『横浜貿易新報』大正15年5月30日)。これにより各町村の財政を強固にして、郡役所廃止後の情勢に対応させようというものであった。各町村でもこれを受けて合併の可能性が検討されるが、結果的にこの後町村合併はほとんど進展せず、郡内町村は昭和期以降に横浜市・川崎市の市域拡張の波を受けて、両市に編入されていく。
郡役所は大正15年6月30日をもって廃止されるが、廃止にあたり、郡役所看板下ろし【写真4】と廃止記念の宴会が行われている。
二階の講堂に茣蓙を敷き、そこで最後の夜を心ゆくまで惜しむことにした。平素役所に関係の深かった向きからの、酒肴の寄贈や、ボランティア芸者の応援もあって、講堂の明りは深夜まで煌々と照り輝き、爆笑や唄声の狂奏曲が賑やかに響きわたった。
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