新任の郡長は鶴見総持寺に就任挨拶に行く慣例があった。彼は主席郡書記の端山重吉を伴って参向するが、僧正に面会するまでの手続きの大袈裟さに少々辟易したようである。また次席・伊藤道海の「政治家肌の怪僧で、人心収攬術に長けた敏腕家」であると同時に、「鶴見花街ではモテモテの大人気者」という噂も耳にしている。
さらに川崎大師僧正との想い出も記されている。大正一五年正月、僧正の箱根静養に際して、福本は前司法大臣鈴木喜三郎(大師出身)とその子息国久、萩原大師銀行頭取、中村稲毛神社宮司らと同伴し、昼間は囲碁、夜は宴会という、それまでの人生で味わったことのない「桃源郷」のような豪遊を体験した。
地域の有力者との接触という点で言えば、赴任早々、郡役所を訪れた橘樹郡農会長・飯田助大夫に、「ホホー若い郡長さんだな、しっかりやって下さいよ」と声を掛けられている。飯田助大夫は大正14年10月20日に死去するので、福本が彼に会ったのは死去の直前ということになる。飯田家は綱島の旧家で、当時助大夫の息子の助夫は大綱村(現港北区)村長の任に当たっていた。飯田助夫は11月4日に橘樹郡町村長会のために郡役所へ出頭し、福本と初対面した時の印象を、「民衆主義極めて助才なく円満振り発揮、初対面の気分宜し」と書き留めている(「飯田助夫日記」大正14年11月4日飯田助知氏蔵)。
写真3 供進士大綱村の郷社 熊野神社(池谷随員)

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