横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第144号
2019(平成31)年4月27日発行

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資料よもやま話
「兵隊山」の誕生
−太田陣屋と横浜大隊区司令部−

現在、関東学院中学校高等学校の所在する三春台(南区)はかつて「兵隊山」と呼ばれていた。冨山隆「兵隊山を巡って」(『和関内輪通信』第12号、2006年12月)によれば、東福寺(現・西区赤門町)付近で少年期を過ごした作家の吉川英治は、普門院(現・南区西中町)裏手の丘を「兵隊山」と呼称している(吉川英治『忘れ残りの記』文芸春秋新社、1957年)。また、末吉町で生まれた作家の長谷川伸も吉川と同様に「兵隊山」の呼称を用いていた(長谷川伸『よこはま百話』北辰堂、1954年)。

では、この由来はどこにあるのだろうか。冨山氏は演習場であったとしているが、その実態は必ずしも明らかになっていない。そこで本稿では、国立公文書館や防衛研究所の所蔵する陸軍関係文書をひも解きながら、「兵隊山」の謎を追いかけてみたい。なお、年月日は1872(明治5)年までは太陰暦、それ以降は太陽暦で表記する。

明治初年の太田陣屋

図1 明治初期の太田陣屋
『ファーイースト』1871年9月16日 当館蔵
図1 明治初期の太田陣屋 『ファーイースト』1871年9月16日 当館蔵

さて、「兵隊山」の起源を追いかけると、安政6(1859)年9月に竣工した太田陣屋(現・中区日ノ出町)まで遡る。この施設は福井藩が建設したもので、横浜における陸上警備の拠点として機能していった。以後、施設の管理は松代藩を経て幕府の神奈川奉行所に移り、慶応3(1867)年正月からはフランス軍事顧問団の伝習所として使用された。ただし、設備が不適当だったため、伝習所としての機能はすぐに江戸へ移ることになった。

慶応4年1月、戊辰戦争の勃発によって江戸幕府が崩壊すると、太田陣屋の管理も新政府の手に移っていく。4月20日、新政府による神奈川奉行所の接収と同時に、太田陣屋には佐賀藩兵が駐屯、さらに東北戦線で負傷した兵士を治療する病院として活用されていった。戦争終結後は神奈川県の管轄となり、県兵が駐屯したが、明治3(1870)年に勃発した普仏戦争を契機に、兵部省の管轄となっていった。

日本政府は山手に駐屯するフランス軍と、横浜港を利用するプロイセン軍が衝突することを懸念しており、品川沖の海軍停泊地から警備用の軍艦を派遣した。一方、神奈川県も兵力の不足を懸念し、兵部省にその増派を求めていた。そうしたなか、明治3年8月15日夜、横浜の飲食店で普仏間の衝突が発生する。これはイギリス駐屯軍の士官が仲裁したことで収まったが、両国の兵士たちは集団で街中に展開、緊張を高めていった(「横浜停泊ノ孛仏兵上陸闘争景況」、『太政類典第一編 第五十八巻』、国立公文書館蔵)。神奈川県は県兵を展開させて治安維持に努めたが、戦争中は衝突の危険性が常にあった。

9月15日、兵部省は横浜警備の軍隊を常設することを想定し、太田陣屋を予備陣営として管理したい旨を太政官に申請、それを受けた太政官は神奈川県にその移管を指示した(「横浜太田陣屋ヲ兵部省海陸屯営ト為ス」、『太政類典第一編 第百七巻』、国立公文書館蔵)。警備を目的としていることから、申請の背景には、普仏間の対立があったのは間違いないだろう。

以後、太田陣屋は兵部省の出張所となり、陸上兵力の受け皿となったほか、横浜港に入港する軍艦を支援する施設として活用されていった。一方、普仏戦争はプロイセンが勝利し、1871年に同国の国王を皇帝とするドイツ帝国が誕生した。

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