横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第144号
2019(平成31)年4月27日発行

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資料よもやま話
「兵隊山」の誕生
−太田陣屋と横浜大隊区司令部−

太田陣屋の廃止と代替地

明治5(1872)年2月28日、軍事を所管する兵部省は陸軍省と海軍省に分離、太田陣屋は前者の管轄になると同時に、神奈川砲台を運用する東京鎮台第3砲隊の兵営となった。しかし、1874年2月、佐賀の乱鎮圧のため、同隊が出征すると、駐屯兵力は縮小、同年末には兵力の常駐は廃止となる。東京の軍事拠点化や鉄道の開通、警察制度の整備によって、横浜に軍隊を置く必要はなくなったのだろう。

兵力のなくなった太田陣屋は急速に廃れ、1876年3月には、陸軍省が建物の払い下げを行っている(太田久好編『横浜沿革誌』)。また、神奈川県や大蔵省、内務省、海軍省からは土地利用の申請が相次いだ。例えば、海軍省は練兵場としての使用を求めたほか、内務省勧業局はアメリカから輸入した畜産牛・馬・羊の一時保管場所として太田陣屋の敷地使用を要請した(「勧業局ヨリ野毛旧陣屋借用云々依頼」、『明治十年三月 大日記 院省来書』、防衛研究所蔵)。

しかし、陸軍は各種要請に応じる一方、土地の払い下げは行わなかった。施設としての機能は失ったものの、土地の財産価値を重視したのだろう。1877年6月30日調査の「諸官廨並所轄地坪建坪明細表」(『陸軍省第二年報』)によれば、太田陣屋の敷地は約12,800坪であった。そうしたなか、久良岐郡太田村字霞耕地の所有者と陸軍省との間で、太田陣屋との土地交換の話が浮上していった。

1881年11月、陸軍省は太政官に土地交換の許可を申請、その理由書には、「横浜日ノ出町元太田陣屋地は当省所轄たりし、爾来近傍野毛山の如き漸々開墾し、随て兵営地に向ひ大傾斜を為し、周囲に人家稠密接附して降雨の際、故ら流水の侵入山砂の崩圧為めに兵舎の柱礎殆と埋没し、其他名状す可からさる」と、荒廃している状況を記した上で、霞耕地の必要性を訴えている。

さらに陸軍は太田陣屋が約12,800坪なのに対し、霞耕地は約13,000坪とした上で、「該港の以西に方って市井の尽る所の丘陵にし、高燥市港を眼下に望見し、前面に太田川の水路を帯ひ、後面に東海道、程ケ谷駅に達する便路あり」と、交通の利便性を説き、兵営設置の適地と結論付けている(「神奈川県下横浜陸軍兵営地交換ヲ許サス」、『公文類聚第六編 明治十五年 第十六巻』、国立公文書館蔵)。

そうした土地交換の手続をめぐっては、中央官庁の間で調整が難航したものの、翌82年8月に太政官の許可が出る。この土地こそが現在の三春台、関東学院の場所であった。

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