横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第144号
2019(平成31)年4月27日発行

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資料よもやま話
「兵隊山」の誕生
−太田陣屋と横浜大隊区司令部−

横浜大隊区司令部の開設

1883(明治16)年12月、陸軍省は土地所有者から霞耕地を購入、『陸軍省第十年報』(1884年度)には、「砲兵営用地」として、太田村字霞耕地約12,400坪の記載が確認できる。続く『陸軍省第十一年報』(1885年度)には、「陸軍省所属建物」に横浜霞耕地の「騎兵営」として平屋約165坪の記載があり、同地では施設の建設も進められていった。

一方、太田陣屋は1885年12月15日に払い下げられ、陸軍の管轄から離れていった。ただし、陸軍省の手違いで、太田陣屋の跡地は霞耕地の所有者以外に渡ってしまい、元所有者は霞耕地の返還を求めていく。その後、跡地には、横浜裁判所の仮庁舎が建設され、1887年4月から事務を開始した(『読売新聞』1887年4月8日)。

このように太田陣屋の空間は霞耕地の騎兵営に継承されたものの、常設の部隊が置かれることはなかった。しかし、1888年5月12日の大隊区司令部条例(勅令第29号)の公布とともに、横浜大隊区司令部が開設されると、状況は変化し始める。徴兵事務等を掌る同司令部は、6月1日に横浜区戸部町2丁目に設置されたが、26日に霞耕地の騎兵営に移転することになった(『官報』第1502号、1888年7月3日)。つまり、霞耕地が神奈川県および山梨県の兵事行政の中心地となったのである。「兵隊山」の由来は、陸軍の役所が置かれたことに起因すると推察できる。

図2 横浜連隊区司令部の位置
(「用地使用願」、『明治三十五年十月 壹大日記』、防衛研究所蔵/アジア歴史資料センター公開)
図2 横浜連隊区司令部の位置 (「用地使用願」、『明治三十五年十月 壹大日記』、防衛研究所蔵/アジア歴史資料センター公開)

他方、大隊区司令部の使用した敷地は霞耕地の一部で、大部分は未使用の状態となっていた。それゆえ、元所有者はもちろん、土地の利便性に着目した人びとがその払い下げを求めていった。だが、陸軍省がそれに応じることはなかった。この間に広い敷地が練兵場として使用された可能性も考えられる。

1896年3月25日公布の連隊区司令部条例(勅令第56号)に基づき、大隊区は連隊区に改称、その後、日露戦後の軍備拡張によって横浜連隊区司令部は甲府に移転していった。陸軍が去ったことで土地は内務省と神奈川県に移管され、1918(大正7)年にバプテスト伝導社団の土地となったのである。

図3 現在の三春台と普門院 2019年1月撮影
図3 現在の三春台と普門院 2019年1月撮影

(吉田律人)

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