横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第144号 > 企画展  古写真にみる神奈川宿・神奈川湊〈2〉

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第144号
2019(平成31)年4月27日発行

表紙画像

企画展
古写真にみる神奈川宿・神奈川湊

一 ロシエ「神奈川宿」

まず、ロシエが撮影した「神奈川宿」(図版1)からみていこう。この写真は東海道沿い=海沿いにおける神奈川宿の最高地点である(青木町の)権現山の北斜面より、北西側(江戸方向)に位置する神奈川町方向を眺望したもの。右下にみえる橋は、東海道が滝の川を渡る滝の橋である。滝の川は、神奈川宿を構成する二つの町=神奈川町と青木町を区切る境界であり、それより下部=手前側が青木町、上部が神奈川町である。この滝の橋から左斜め上へと直線状に伸びている道が東海道である。右上には干潟状となっている海が広がっている。

図版1 ロシエ「神奈川宿」 当館所蔵
図版1 ロシエ「神奈川宿」 当館所蔵

さて、こうした権現山から西北方面を見下ろした絵画としては、「神奈川砂子」所収の挿絵「瀧之橋・権現山」(図版2)が存在する。この挿絵は、神奈川町と青木町の境界である滝の川周辺に存在する神奈川宿の中心部分を描いたものである。滝の川より上部には青木町の「瀧之町」「久保町」「宮之町」が、下部には神奈川町の「西之町」「猟師町」等が描かれている。ちなみに神奈川町と青木町における「町(マチ)」の表記は「村」と同様な行政単位であるが、両町ともその内部に「町(マチ)」の構成単位として複数の「町(チョウ)」を包摂しており、「瀧之町」や「西之町」はこの「町(チョウ)」に当たる。

図版2 「瀧之橋・権現山」 石野瑛校訂『武相叢書第二編 金川砂子 附神奈川史要』(1930年刊行)より転載
図版2 「瀧之橋・権現山」 石野瑛校訂『武相叢書第二編 金川砂子 附神奈川史要』(1930年刊行)より転載

ロシエ「神奈川宿」の撮影地点である権現山は、挿絵「瀧之橋・権現山」では右上に位置し(「権現山」という表記がみえる)、麓の宗興寺から長い石段を登って頂上にいたる様子が描かれている。ロシエ「神奈川宿」の最下部において、庭に樹木がみられるのが宗興寺とその境内であろう。なお、権現山の頂部は、現在の市立幸ケ谷小学校の敷地に該当するが、神奈川台場建設における土砂の供給地として、頂部が削られたため、かつての高さを現地で感じるのは困難となっている。

さて、挿絵「瀧之橋・権現山」によれば、「瀧之橋」の下部(神奈川町側)の右手(内陸側)に「高札」(高札場)が存在する。上下・左右の向きが逆になるロシエ「神奈川宿」では滝の橋の北側(神奈川町側)の橋詰の左側に高札場がみえる。宿場における高札場の所在地は、宿場間の距離を示す起点であり、宿場の中でも人々の往来が最も盛んな地点であり、いわば宿場の中心ということになる。

ロシエ「神奈川宿」高札場の二〜三軒先には瓦屋根の豪奢な建物がみえる。敷地の裏手が滝の橋よりやや神奈川町側へ寄るように食い込み滝の川に隣接するほどの敷地の規模となっている。よくみるとその建物の入口は、隣接する家屋と比べて、東海道の道筋よりやや下がっていることが分かる。この建物は神奈川町における唯一の本陣の石井本陣である。挿絵「瀧之橋・権現山」では、「高札」(高札場)のやや下に「御本陣」として表記されている。なお、「神奈川砂子」には挿絵「神奈川御本陣」(図版3)が所収されており、参勤交代の休泊時における荷物の搬出入を円滑に行う空間を確保するため、本陣の入り口が東海道の道筋からも若干下がって設定されていることがうかがわれる。

図版3 「神奈川御本陣」
石野瑛校訂『武相叢書第二編 金川砂子 附神奈川史要』(1930年刊行)より転載
図版3 「神奈川御本陣」 石野瑛校訂『武相叢書第二編 金川砂子 附神奈川史要』(1930年刊行)より転載

≪ 前を読む      続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲