横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第143号
2019(平成31)年2月2日発行

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資料よもやま話
アベイ家の人びとと関東大震災

アベイ家の大黒柱、トムの運命

バーバラたちの父トムは地震後の火災にまかれ死亡した。横浜外国人墓地にあるその墓石には「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」という聖書の一節が鮮明に刻まれていた。

トムは避難中にこの言葉通りの行動をとったのだ。友とは、横浜外国人社会で誰もがよく知る、イギリス人医師、ウィーラー、82歳だった。明治初期に海軍医として来浜し、除隊後は横浜に留まり山手の横浜一般病院長として、とくに産科医として活躍した。父トムの掛かり付け医でもあり、長年、家族ぐるみの付き合いがあった。晩年のウィーラーは診療を午前中で終えると、トムの事務所に寄って一緒に一杯飲み、帰宅するのを日課としていたという。トムの事務所はウィスキーとワインの代理店業もしていたので、格好の場所だったのだろう。

その日もウィーラーの姿は事務所にあった。大きな揺れだったが事務所の建物は何とか倒壊を免れ、トムは真っ先に日本人番頭とその家族を避難させ、自分は山手の自宅に戻ろうとするウィーラーと行動を共にした。この老医師は数年前に足首を怪我して以来、歩くのが遅かった。トムは、家族が大桟橋にいることはわかっていたが、この老医師を見捨てたりはしなかった。二人の遺体は、海岸通りに向かう通りで発見された。ポケットの中味から二人だということが判明した。トムのこの博愛の行動は『ジャパン・ウィークリー・クロニクル』10月11日号の訃報記事で詳しく紹介された。享年56。

二人の遺体は7日、他の二人のイギリス人たちと一緒に山手のイギリス海軍病院敷地に仮埋葬された。葬儀を司ったのはクライスト・チャーチのストロング牧師だった。震災後の救援活動に尽力し、そのめざましい働きが当時の新聞で紹介された人物である。牧師がトムに捧げた祈りの言葉が、先に紹介した墓石のそれである。バーバラたちはまだ横浜港のルボン号に避難中に、牧師から父の死を知らされたという。

カリフォルニアへ移住

バーバラたちの母、モードは一家の今後を考え、自分が生まれ育ち兄弟が住むカリフォルニアへの移住を決心し、子どもたちと母親を連れて、1923年中に日本を離れた。バーバラはその後の一家の暮らしを回想に残していないが、神奈川県立公文書館所蔵「永代借地権ニ関スル書類」に手がかりがあった。震災から2年後の25年、モードは夫の弟、デーヴィッドを代理人として山手町3番地の永代借地権を神戸在住のイギリス人に売却した届けを出していた。デーヴィッドは避難先の神戸から横浜に戻り、早くも山下町66番地で番頭のK・タカヤマとホール商会を再建していた(『ジャパン・ディレクトリー』1925年版)。

バーバラはその後、家庭をもち、アメリカで暮らしながらも、故郷、横浜のことを忘れたことはないと、語っている。2007年、101歳の天寿をコロラド州デンバーで全うした。

バーバラの回想とアベイ家の写真資料は一家の震災前の暮らし、それらを奪った震災の体験、そしてその後の生活再建の歩みの一端を伝える外国人被災者の新たな記録である。トム・アベイ氏のご厚意に感謝したい。トム氏はご家族で昨年末、初来日し、当館に立ち寄られた後、山手墓参を果たした。

(中武香奈美)

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