横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第143号
2019(平成31)年2月2日発行

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資料よもやま話
アベイ家の人びとと関東大震災

震災の日の一家の行動

震災が起きた日の朝、いつものように見送りを受けてトムは市電乗り場に向かったが、なぜか戻ってきてもう一度、「グッバイ」と告げたという。そんなことはそれまで一度もなかったと、バーバラは回想している。

そして母モードとバーバラ、キャサリン、リチャードの4人は大桟橋に出かけた。正午に出航するカナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・オーストラリア号でカナダの学校に戻る友人たちの見送りに行ったのだ。マーガレットは父方の叔母と田舎に出かけていて不在だった。

大きな揺れが襲った時、大桟橋には外国船3隻が停泊していて、見送りの人たちなどで千人近くの人出があった(今井清一『横浜の関東大震災』有隣堂、2007年)。足下のコンクリート製の大桟橋が崩れ始め、人びとがつぎつぎに水中に落ちていった。バーバラたちは大桟橋の反対側へと逃げ、停泊中のフランス船、アンドレ・ルボン号に救助された。「ルボン号乗り組みのフランス人船員たちが幅広のはしごを投げ下ろしてくれ、それを登って甲板にあがった。母とキャサリン、ディック(リチャード)が先に登り、最後は私だった。ところがはしごが壊れ始め、桟橋と船の間の海中に落ちる寸前でフランス人船員が私を引っつかんで引き上げてくれた。本当に恐ろしかった」と、バーバラは語っている。救出された船上からは全市をおおう炎と煙しか見えず、また流れてくる煙で甲板にいる隣の人の顔の見分けもつかない程だったという。

その晩、一家はルボン号のキャビンで眠れぬ夜をすごした。ドアの外では船員たちが、火が船に移らないよう夜通し水をかけ続けたという。ルボン号は機械が損傷してすぐに出航できず、バーバラたちはそのまま船中に留まり、ようやく12日に神戸に避難した(『ジャパン・ウィークリー・クロニクル』9月13日号の乗船名簿)。神戸には父トムの弟が住んでいたので、家族で身を寄せた。

横浜の災害の実情を知った神戸の欧米外国人社会は英国総領事を会長に救済委員会を組織し、ホテルに百床の救急病院をつくり、自宅を罹災者に開放するなどして救援にあたった。医療品や食料、医師や救援ボランティアを乗せた救援船も横浜に送った。多数の外国人が神戸に避難し、さらに本国をはじめとする海外に脱出したり、また神戸に定住したりする人たちも出た。そのため、震災後の横浜市の欧米外国人の人口は激減した。例えば最多数だったイギリス人は、1919年に千人を超えていたが、26年には370人となった。

自宅に残っていた祖母の逃避行

アベイ家には、母方の祖母、ウォーカー夫人が同居していて、その日、ジンジャーという名前のセッター犬と一緒に留守番をしていた。地震が起こる前、犬は何かを察知したのか、2階のベランダにいた祖母の服の裾を引っ張って、階下に、さらに家の外に連れ出そうとしたらしいが、そこに大きな揺れが襲った。家は倒壊を免れたが、家具や壁が倒れ、やっとの思いでたどり着いた裏口は倒れかかった冷蔵庫に塞がれて外に出ることができなかった。コックが冷蔵庫の下敷きになっていた。そこに召使いのひとりが現れ、祖母とコックを救い出してくれた。裏庭で父の妹と合流し、祖母たちは犬を連れて山手本通りに出、丘の上の根岸競馬場を目指した。その夜を大勢の避難民と一緒に競馬場で過ごした祖母は、眼下の市街地が燃え続けているのを見て、家族は全員、亡くなってしまったと思った。

翌日、祖母たちは外国船の救命ボートで汽船スティール・ナヴィゲーター号に運ばれ、5日夕、神戸に着き、その一週間後、神戸に到着したバーバラたちと再会を果たした。

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