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「開港のひろば」第143号
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資料よもやま話
アベイ家の人びとと関東大震災
昨夏、カリフォルニア在住のトム・アベイ氏(Tom Abbey 78歳)から館宛ての厚手の封筒を受け取った。アベイ家の来歴を記し、山手の横浜外国人墓地にある同家の墓についての問合せの手紙と一緒に、1923(大正12)年の関東大震災に遭遇した伯母バーバラ(Barbara Anne Ransome)からの聞き取り(1986年実施)の記録が同封されていた。
バーバラは1906年、横浜に生まれた。震災時は17歳、聞き取り時は80歳だった。5人兄弟姉妹の一番上で、手紙の主のトム氏の父、リチャード(後出の曾祖父と同名)は、その末弟にあたる。
本稿では、一家の震災史をバーバラの聞き取りや当時の神戸の英字紙『ジャパン・ウィークリー・クロニクル』などをもとにたどってみる。
アベイ家の人びと
トム氏の曾祖父リチャード・アベイ(Richard Abbey)は、1875(明治8)年、日本政府に電信技師として雇われ来日したイギリス人で、いわゆる「お雇い外国人」のひとりだった。イギリス生まれの長男トム(手紙の主と同名で、祖父にあたる)が来日したのは6歳頃のことだった。横浜で成長して競売業と代理店業、不動産管理業を営むホール商会(Jno. W. Hall)に勤め、社主が亡くなるとその後を継いだ。事務所は本町通りに面した山下町61番地にあった。1904年、37歳の時にアメリカの会社である太平洋郵船会社のウォーカー船長の娘、モード・メリー(Maude Mary Walker)と結婚し、バーバラ、キャサリン、ロバート、マーガレット、そしてトム氏の父リチャードの5人が生まれた。
震災前の山手での暮らし
震災時、アベイ一家は山手町3番地に暮らしていた。地蔵坂を上がりきって左に折れ、桜道を少し下った辺りである。長男ロバートはカナダ、ヴィクトリアのイギリス系男子校に学んでいて、横浜に居なかった。父親のトムは娘たちもカナダの学校に学ばせたかったが母親が反対し、カトリック教会運営の山手の小規模な学校(サン・モール学校か)に通っていた。この学校にはさまざまな国籍の子どもたちが学んでいたが、イギリス人が多数を占めていたという。
自宅は敷地が約700坪もあるコンクリート造りの立派な2階建てだった。お抱えの日本人のメイドや召使い、庭師、コックがいたが、このような暮らしは、山手では特別ではなかったと、バーバラは回想している。同じ敷地に、父の弟で同じ商会で働くデーヴィッドと、妹が住んでいた。
トムは毎朝、出勤時、近くの山手公園の門まで家族の見送りを受け、桜道を麦田まで下って、停留所「桜道下」から市電に乗り、元町トンネルを抜けて、おそらく「薩摩町」で降り、山下町の事務所に通った。