横浜開港資料館

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「開港のひろば」第143号
2019(平成31)年2月2日発行

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展示余話
日露戦後の軍備拡張と横浜
−東京から甲府へ−

戦争は急速な軍備拡張を生じさせ、軍事的空間の再編を促していく。日露戦争時、国内にあった13個の師団(近衛師団および第1〜第12師団)がすべて出征したため、陸軍は新たに四個師団(第13〜16師団)を編成し、占領地の警備等に投入していった。その後、講和が成立すると、ロシアを仮想敵国とする陸軍は師団の増強を決定、さらに2個師団(第17・18師団)を加えて、19個師団体制とした。これに伴い、新設師団の兵営と人員が必要となり、陸軍はそれらの整備を進めていった。一方、兵営設置による地域振興をめざす自治体が師団誘致運動を展開、敷地献納などを陸軍側に働きかけていく。こうした軍備拡張の動きは横浜にも影響を与え、人の流れを変えていった。

前回の企画展示「明治の戦争と横浜」では、日露戦後の軍備拡張によって現在の横浜市域に住む人びとが山梨県甲府市に設置された歩兵第49連隊に入隊した点を紹介した。今回はそれについて新聞史料を交えながら追いかけてみたい。

横浜連隊区と歩兵第1連隊

日露開戦時、現在の横浜市域を構成する橘樹郡と都筑郡は麻布連隊区司令部、それ以外の横浜市、久良岐郡、鎌倉郡は横浜連隊区司令部の管轄に属した。連隊区司令部とは、管轄区域(連隊区)の徴兵事務および召集事務を掌る役所で、前者は東京市赤坂区青山南町1丁目、後者は横浜市南太田町(旧久良岐郡戸太町太田、現・南区)に所在した。そして「歩兵隊兵員徴集区指定表」(1899年4月8日、陸達第35号)に基づき、いずれの連隊区も合格者の多くは東京赤坂檜町の歩兵第1連隊に入隊することになっていた。

戦争勃発から約一ヶ月後の1904(明治37)年3月6日、歩兵第1連隊にも動員令が下り、部隊は戦時編制に組み替えられる。同19日、歩兵第1連隊は檜町の兵営を出発、同連隊の所属する第1師団は広島で第2軍(司令官・奥保鞏大将)に編入された。その後、歩兵第1連隊は4月22日に宇品から出港、5月6日に遼東半島に上陸した後、直ちに南山攻略作戦に参加する。ここで多くの死傷者を出しつつ、5月26日に南山の占領に成功した(防衛研究所戦史研究センター史料室蔵『歩兵第一聯隊歴誌 巻二』)。

以後、第1師団は乃木希典大将を司令官とする第3軍に編入され、激戦となった旅順攻囲戦や奉天会戦を戦うことになる。このような戦闘に横浜の人びとも参加し、多大な犠牲を払っていった。

図1 旅順要塞の戦い
『ル・モンド・イリュストレ』1905年1月14日付 当館蔵
図1 旅順要塞の戦い 『ル・モンド・イリュストレ』1905年1月14日付 当館蔵

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