横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第143号
2019(平成31)年2月2日発行

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展示余話
日露戦後の軍備拡張と横浜
−東京から甲府へ−

歩兵第49連隊の新設

奉天会戦後の1905(明治38)年3月31日、第13師団編成の動員令が発せられ、中核となる四つの歩兵連隊をはじめ、師団を構成する各部隊の新設作業が進められた。歩兵第49連隊もその一つで、東京を編成地として全国から兵員を召集、在京部隊の各兵営に分宿させた(樋貝義治『戦記 甲府連隊』サンケイ新聞社、1978年)。当時、近衛歩兵第4連隊補充大隊で伍長として新兵教育にあたっていた鎌倉郡瀬谷村(現・瀬谷区)出身の小野孝作も4月1日付で歩兵第49連隊に移った一人であった。

戦時中の部隊の行動は秘密となるため、一般に知られることはないが、小野の記した履歴書から戦時中の歩兵第49連隊の活動がうかがえる(小野一男家文書)。5月27日に行われた日本海海戦において、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破ったことで、戦況は日本側に有利に進んだ。そうしたなか、陸軍は樺太(サハリン)での軍事作戦を進め、第13師団を投入していく。小野の記録によれば、歩兵第49連隊は6月21日に東京の兵営を出発、26日に横浜を出港して樺太をめざした。その後、7月7日に樺太に上陸、約一ヶ月の戦闘で同地を占領していった。

9月5日、アメリカのポーツマスで日露講和条約が締結され、日本は北緯50度以南の樺太の権利を獲得する。講和に伴い、第1師団を含めた大部分は日本に帰還することになるが、第13師団は一部を残して朝鮮半島に移動することになった。歩兵第49連隊も9月19日に樺太から出発、途中、広島県の宇品を経て、10月22日に朝鮮半島に上陸した。以後、同連隊は朝鮮半島で警備の任に就くことになる。

それから第13師団が日本に戻ったのは、戦争終結から三年後の1908年11月で、横浜はその受け入れ窓口となった。11月7日以降、部隊を乗せた船が入港すると、横浜は歓迎ムードに包まれた。11月9日付の『横浜貿易新報』も「軍隊の宿舎に当てられたる市内各戸には国旗掲揚され、永らく異郷に服務せし健児は初めて本国の地を踏みて欣喜惜く能はず、宿舎に入るや直ちに市内の散歩を許され、各所に軍影を見るに至りしかば、此勇ましき姿を見んとて関内若くは伊勢佐木町辺へ来る者も多きを以て市内は時ならぬ賑ひを呈したり」と報じている。横浜は軍事輸送の拠点として機能したのである。

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