横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第143号
2019(平成31)年2月2日発行

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展示余話
日露戦後の軍備拡張と横浜
−東京から甲府へ−

横浜連隊区司令部の甲府移転

日露戦争終結直後の1905(明治38)年12月7日、甲府市会は兵営設置の請願を決議、続いて地域の財閥である若尾家も全面的に協力して、土地の献納を陸軍省に申請する。こうした地域側の動きと陸軍側の意図が合致し、甲府に兵営が設置されることになった。

1907年9月17日、陸軍省は軍令陸第3号で「陸軍管区表」を改正し、横浜連隊区司令部の甲府移転と、名称変更を発表する。続いて翌18日の「陸軍常備団隊配備表」の改正で歩兵第49連隊の第1師団編入と、甲府設置が正式に決定する。これに伴い、甲府では施設の造営作業が進展することになった。

一方、横浜では、連隊区の変更によって旧横浜連隊区の人びとは入隊先が歩兵第1連隊から歩兵第49連隊へ変わった。また、連隊区司令部も甲府へ移転することとなり、その作業が進められていった。10月1日には横浜連隊区司令部の名称が「甲府連隊区司令部」に変更される。

1908年3月8日、連隊区司令官である牛尾敬二少佐以下、19人の職員は、横浜駅から横浜奨兵義会会長である大谷嘉兵衛ほか、約300人に見送られて甲府へむかった。同日付の『横浜貿易新報』は、「我聯隊区司令部は駐在官設置当初より実に三十余年間横浜に縁故を有し、公私の関係に於て司令部と横浜市との間は極めて親厚なるものありしに、今や司令部が遠く甲府に移らるゝに当りて無限の感慨と懐旧の情誼なき能はず」とし、これまでの司令部の変遷を記しつつ、「横浜市民の徴兵合格者は連隊区及び四十九連隊との関係は依然として渝ることなければ、市民は司令官及び司令部員の健全を祈ると同時に交情の旧の如くならんことを希望せざるを得ず」と読者に求めている。徴兵事務を通じて地域と連隊区司令部が深く関係していたことがうかがえる。

さて、受け入れ側の甲府では、連隊区司令部の歓迎準備が進められており、地元新聞も特集記事を組んでいる。例えば、8日付の『山梨日日新聞』は「吾人は之に依りて軍事行政上重要の一官衙が新たに本県に設けらるゝに至りたるを喜ぶ」とした上で、在郷軍人(除隊した軍人)の風紀改善問題を指摘し、「在郷軍人は一様に所属連隊区司令部の管轄を受くるが故、其位置の如何んの如き深く之を問ふの要なきに似たるも、離隔して管轄せらるゝは接近して管轄せらるゝの優れるに如かず、吾人は此点に於て最も甲府連隊区司令部の移転開設を多とするものなり」と、その存在に期待を寄せている。

3月9日、甲府に到着した牛尾一行は大々的な歓迎を受け、市内太田町公園の料亭「望仙閣」で歓迎会が催された。当日は大雪だったにもかかわらず、534人の出席者があった。席上、牛尾は司令部の役割として、「軍隊と地方との間に立って双方の意志の疎通を計り、両者の間を円滑にして往くと云ふ事です」と挨拶、参加者に協力を求めつつ、翌日から司令部を機能させていった(『山梨日日新聞』3月10日付)。 歩兵第49連隊の甲府移駐

帰還後、歩兵第49連隊は千葉県の習志野に駐屯していたが、兵営の完成とともに甲府移転することになった。この時点で、すでに横浜市、久良岐郡、鎌倉郡の出身者は同連隊に入隊していた。

図2 山梨県甲府市・歩兵第49連隊の兵営跡
2018年10月撮影
図2 山梨県甲府市・歩兵第49連隊の兵営跡 2018年10月撮影
図3 歩兵第49連隊の糧秣倉庫
(現・山梨大学赤レンガ館)2018年10月撮影
図3 歩兵第49連隊の糧秣倉庫(現・山梨大学赤レンガ館) 2018年10月撮影

1909(明治42)年4月22日から二日間、歩兵第49連隊は甲府に移動、市民の歓迎を受けながら新たな兵営に入っていった。新兵営の一般公開では、神奈川県からも多くの人が駆けつけ、甲府の街は賑わったという(前掲『戦記 甲府連隊』)。また、11月26日には除隊、12月1日には入隊の行事があり、再び多くの人が甲府を訪れた。こうした行事は次第に定着し、地域経済を潤していったのである。

以上のように、軍備拡張を契機に、横浜の軍事的空間は大きく変化し、甲府が神奈川県および山梨県の兵事行政の中心地となる。以後、横浜から甲府への人の流れは、昭和期まで続いていくのである。

(吉田律人)

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