横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第142号 > 展示余話  慶応四年、佐賀藩の横浜駐屯『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』から〈3〉

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

表紙画像

展示余話
慶応四年、佐賀藩の横浜駐屯
『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』から

支配地域と巡回

『諸仕組達帳』には佐賀藩が取締に関与したと思われる村・町名が書き上げられている(閏4月付)が、これは神奈川裁判所(横浜裁判所から改称)の支配地域と同一のようである。裁判所は神奈川奉行所から地域の支配を受け継いでいるから、神奈川奉行所の支配地域とも重なることになろう。念のため、『神奈川県史』資料編10(神奈川県、1978年)所収の「神奈川奉行御預所村高帳」(慶応三年頃、以下「村高帳」)と比較してみると、支配の村・町名は同一だが、「裁判所御領郷村高縄之内新町等之分」として、「村高帳」にない次の町名の書き上げがある。

神奈川宿内新猟師町/吉田町之内吉原町/戸部町之内野毛町/横浜元町/弁才天町/駒形町代地/縁(緑カ)町/新浜町/若松町/真砂町/末広町
*ただし、新猟師町は「村高帳」にも記載がある。

ここに記された町は、既存の町の周縁部(沼沢地・田畑など)が市街地化したことによって新たに成立した町であろう。横浜の新興の町をうかがうことができるリストとも言える。

閏4月18日、佐賀藩にこれら支配の村や町を「非常取締」のために巡回すること(「当裁判所掛り市郷共非常為取締廻方」)が命じられる(『横浜御出張日記』)。その巡回にあたっての留意事項が、次のように『諸仕組達帳』に記されていた。

一、廻方の節、村役人などへ立ち寄り候節、たとえ酒食等差し出し候躰の儀これあり候とも、断り相成候よう(後略)一、御一新の折柄に付、民心安堵致し候よう、鎮撫の御主意差し含まれ、いささかも疎暴の挙動これなきよう一、民間の患難疾苦御救助もこれなくて叶わざるほど(の)者これあり候わば、事情承り糺し、達し出相成候よう

村役人の家で酒食を出されても断るように、粗暴な振る舞いをせず「民心」を「安堵」させるように、新政府の助けが必要な者があれば事情を尋ねること、など、佐賀藩士は庶民の心情にも配慮しつつ、パトロールをおこなうことを命じられていたのである。

下野へ

慶応4年5月9日、鍋島直大は佐賀藩兵を率い、「野州表」(栃木県)に向けて横浜を出発する。佐賀藩兵の横浜駐屯は52日間でしかなかったが、外国代表が居住する横浜において、政権交代時に治安維持にあたった佐賀藩の役割はけっして小さいものではない。横浜の地域史のみならず、幕末維新史の重要な一局面を明らかにするうえで、さらに検討を深めたいテーマである。

(𠮷﨑雅規)

≪ 前を読む

このページのトップへ戻る▲