横浜開港資料館

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「開港のひろば」第141号
2018(平成30)年7月21日発行

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企画展
戊辰戦争と横浜
山梨、宮城、北海道に残る記録から

横浜病院

戊辰戦争の時期、横浜の野毛に「横浜病院」という病院があり、戦争の負傷者の治療にあたった。この病院については、すでにいくつか検討がなされており(中西淳朗「「横浜軍陣病院」の歴史地理学的再検討」など)、郷土史ファンにもその存在を知られている。

このたび展示する「奥羽出張病院日記」(陸別町 関寛斎資料館蔵、図3)は、奥羽出張病院頭取に任ぜられた徳島藩の医師・関寛斎が記した「野戦病院」の日記である。日記は近年全文の解読本(翻刻)が刊行され、ようやくその全容を知りうるようになったが、そのなかに横浜の病院に関する事実をいくつか見出すことができた(以下の引用は原資料からおこなった)。

図3 「奥羽出張病院日記一」
慶応4年(1868) 陸別町 関寛斎資料館蔵
図3 「奥羽出張病院日記一」 慶応4年(1868) 陸別町 関寛斎資料館蔵

慶応4年6月9日、前日に新政府から東北地方への出張を命じられた関寛斎は、外科の治療道具が江戸で調達できなかったため、横浜に使いを立てて町なかに道具がないか探す。「万一横浜市中にて払底」の場合は「横浜病院備え置きの機械」を譲ってもらうことも考えていた関だが、11日朝、使いが江戸に戻り、「市中ならびに病院とも外科大道具払底」との情報をもたらした。

図4 関寛斎 陸別町 関寛斎資料館蔵
図4 関寛斎 陸別町 関寛斎資料館蔵

横浜の病院で治療にあたったイギリス人医師ウィリアム・ウィリスは、6月2日(西暦7月21日)付の報告で、「緊急治療を必要とする負傷兵が(横浜に)送られて来た」ことを記し、その総数176名のうち126名が「江戸の北で会津討伐のために派遣されて傷を負った人々」であることを報じている(大山瑞代訳『幕末維新を駆け抜けた英国人医師』)。すでに戦火は北関東・東北にひろがり、戦争の負傷者は横浜に運び込まれていた。関に外科道具を渡す余裕はこのころ横浜にはなかったのである。

14日、品川から出港した寛斎は早くも15日に平潟(現茨城県北茨城市)に到着、平潟の寺院に病院を開き、負傷兵の治療にあたる。日記の21日条には「兼ねて参謀衆より手負いの分、日間取り御見込にては横浜病院へ差し送り」にして、平潟の病院では「軽便に」処置するようにとの指示が記される。同様の記載は25日にも見え、「今日三国丸出船に付き、手負人急卒全快覚束なき分は横浜へ差し送」るようにと参謀より命令があった。つまり、平潟の野戦病院では負傷者に応急的な処置をおこない、治療に日数や手間がかかり、全快の見込みのない重傷者は船で横浜病院に送っていたのである。横浜病院の「中央病院」としての性格が見えて興味深い。

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