横浜開港資料館

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「開港のひろば」第141号
2018(平成30)年7月21日発行

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展示余話
明治初頭横浜の印刷物と活字

日本における活版印刷術と活字鋳造技術は、北米長老教会が中国の上海に設けた印刷所である美華書館の所長を務めたウィリアム・ギャンブル(William Gamble 1830〜1886年)が、1869年11月末から1870年4月上旬までの約4ヶ月間長崎に滞在し、本木昌造をはじめとする長崎製鉄所の職員に、美華書館で培った印刷術と鋳造術を教授したことに始まる。

ギャンブルが長崎で伝えた活版印刷術と活字鋳造術は、本木の部下たちにより、明治3(1870)年中に大阪・京都・横浜へと伝えられた。横浜では、明治3年末、神奈川県令井関盛艮(いせき もりとめ)が邦文新聞の発行を主唱し創設した横浜活版社に、本木の弟子である陽其二(よう そのじ)と上原大市(だいいち)(鶴寿 かくじゅ)が呼ばれ、早速活版印刷により横浜毎日新聞を刊行した。その後横浜活版社は、いくつか書籍も刊行するが、ここでは、横浜活版社の印刷物を通して、明治初頭の横浜の活字事情をみてみたい。

横浜活版社の出版物については、桜井孝三氏の論文に詳しいが(註(1))、ここでは「金属活字と明治の横浜〜小宮山博史コレクションを中心に〜」(横浜開港資料館 平成30年度第1回企画展示)でも紹介した当館所蔵資料を取りあげ、使用されている活字について考えたい。

註(1)
「『横浜毎日新聞』は木活字で創刊−横浜の印刷技術変遷史(1)−」(『印刷雑誌』第73巻第9号 印刷学会 1990年9月)、「横浜活版社の出版活動と陽其二−横浜の印刷技術変遷史(2)−」(『印刷雑誌』第73巻第10号 印刷学会 1990年10月)

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