横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第141号
2018(平成30)年7月21日発行

表紙画像

展示余話
明治初頭横浜の印刷物と活字

横浜毎日新聞受取証

『横浜毎日新聞』は、明治3年12月8日(1871年1月28日)付で、横浜活版社から創刊された、日本で最初の近代的な日刊日本語新聞である。洋紙に活版で両面に印刷されており、従来の整版による冊子型の新聞とは、体裁を一新するものであった。『横浜市史稿 風俗編』には、刊行に到る経緯を、当時の神奈川県令井関盛艮が、邦文新聞の発行を主唱し、明治3年12月、横浜活版社が創設され、編集を神奈川運上所翻訳官子安峻(こやす たかし) が、印刷は長崎で本木昌造の元で活版印刷の事業に従事していた陽其二と上原鶴寿が担当したとしている。前述した桜井氏の研究によると、創刊当時は木活字が使われ、564号(明治5年9月26日付)から平野富二の長崎新塾東京出張活版製造所製の三号楷書鋳造活字が使われ始め、624号(明治6年1月4日付)からは、木活字を廃し和様ひらがなの鋳造活字も使われるようになったことが明らかになっている。

「横浜毎日新聞」は、前日の夕方に印刷し翌朝発行された。定期購読者には、横浜活版社から配達、遠方の場合は、取り次ぎより配達された。ここで取りあげる「横浜毎日新聞受領証」(図1)は、新聞を定期購読していた吉原遊郭の会所が購読代金を支払い、横浜活版社から受け取った新聞代金領収証である。

図1 横浜毎日新聞受取証
横浜活版社 吉原会所宛 申(明治5)年6月20日 当館所蔵 五味文庫
図1 横浜毎日新聞受取証 横浜活版社 吉原会所宛 申(明治5)年6月20日 当館所蔵 五味文庫

吉原遊郭は、横浜開港の際、開港場に設けられた港崎遊郭が、慶応の大火後に羽衣町の吉原遊郭へと移転したものである。この遊郭も明治4年に罹災するが、明治5年秋に高島町遊郭へ正式に移転・開店するまでは、吉原遊郭も営業を続けていた。新聞広告によると購読料は1日分1匁であるが、領収証には6月20日から7月22日までの32日間で36匁になっている。

領収証の活字をみてみると、二号活字と、「今日より」、「申」・「月」・「日」の文字が四号活字で印刷されていることがわかる。右から4行目「右」・「之」は、ベルリンで活字の母型が作られ、上海の美華書館に伝わった活字である。『教会新報』は、北米メソジスト監督教会の宣教師ヤング・ジョン・アレンが創刊し、美華書館が印刷した漢字週刊雑誌であるが、その第16号に掲載されている美華書館の活字見本「美華書館告白」(図2)の四角く線で囲った第二号の部分(線は加筆)にみえる「之」の文字(図3)と、領収証の「之」を比べると、同じ活字であることがわかる。一方、領収証の1行目「証」、4行目「毎」、6行目の「横浜」の活字は、文字の周辺がぼやけており木活字であると思われる。

図2 「美華書館告白」(『教会新報』第16号 1868年12月19日号)
米国議会図書館所蔵 ウィリアム・ギャンブル コレクション
第二号を囲む線は加筆
図2 「美華書館告白」(『教会新報』第16号 1868年12月19日号) 米国議会図書館所蔵 ウィリアム・ギャンブル コレクション 第二号を囲む線は加筆
図3 図2 の第二号「之」部分
図3 図2 の第二号「之」部分

前述した桜井氏は、「陽其二が、本木昌造の命を受けて、横浜に活版社を開いたとき、持参してきたものは四号と二号の明朝体鉛活字だった」と述べておられるが、この領収証をみると、四号と二号の活字が使われており、桜井氏の考察を裏付けているように思われる。

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