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「開港のひろば」第141号
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企画展
戊辰戦争と横浜
山梨、宮城、北海道に残る記録から
鳥羽・伏見の戦いと「安全」な横浜
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが発生し旧幕府軍は敗北した。徳川慶喜が大坂城を脱出して、海路江戸に戻ったことはよく知られているが、敗残兵は横浜にも上陸していた。
甲斐国東八代郡東油川村(現山梨県笛吹市石和町)から横浜の開港場に進出した売込商に篠原忠右衛門(甲州屋)という男がおり、故郷への手紙が大量に残されている。『甲州屋文書』として生糸貿易の研究に使用されているものだが、明治元年の横浜の情勢を知りうる数少ない史料でもあり、今回山梨県立博物館よりお借りして久しぶりに横浜で展示する。
1月18日付の忠右衛門の手紙には、鳥羽・伏見の戦いの情報が記されるとともに、横浜に「追々怪我人舟にて送り来り、十四日には大怪我人三拾六人、当浜御役所へ上り薬用中にこれあり」と、戦いの負傷兵が上陸し、横浜の役所で治療を受けていることが書き記される。また、死去した兵士の処置で横浜が「大混雑」しているようすなども描かれており、横浜の人々は傷ついた兵士の姿から、戦争が発生したことをリアルに感じ取ったことだろう。
しかしながら、忠右衛門は「横浜は当節にては日本一安全の場所に候、安心致さるべく候」とも故郷に書き送っている(「横浜篠原忠右衛門より息正次郎宛書簡」山梨県立博物館蔵、図1)。同様の感慨は、上州出身の商人吉村屋幸兵衛も「(横浜は)日本第一の大(太)平の地」(『吉村屋幸兵衛関係書簡』閏4月29日付)と記していることから、開港場に住む日本人に共通する感想であったにちがいない。
横浜の山手には文久3年(1863)以降、イギリス・フランスの軍隊が駐屯しており、戊辰戦争期の横浜で戦闘が発生することはなかった。諸外国は横浜における貿易を保護することになによりも重点を置き、日本が戦乱の渦に飲み込まれることを望まなかったのである。横浜が「日本一安全」であるという商人の感想は、この時期の横浜の情況というよりもむしろ、日本の他のどの地域とも異なるこの都市の性格をあらわしている、と言ってよいかもしれない。