HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第139号 企画展 北陸地方から横浜へ―銭湯経営者と同郷者集団―〈4〉
「開港のひろば」第139号
|
企画展
北陸地方から横浜へ
―銭湯経営者と同郷者集団―
新潟県新潟市西蒲区
横浜の銭湯経営者で石川県人に次いで多いのが新潟県人である。関東大震災後の横浜の県人会名簿(『新潟県人親睦会々員名簿』)によれば、1924(大正13)年12月現在、「浴場業」として、西蒲原郡(にしかんばら)大原村(現・新潟市西蒲区)出身の杉山辰治や、同小中川町(現・燕市)出身の有波寅三郎の名前が確認できる。『六大都市府県下浴場名鑑』によれば、杉山は保土ケ谷区天王町で「杉野湯」を営んでいたほか、有波は中区(現・西区)久保町にある第二、第三の「進盛館」を経営していた。また、藤棚町の第一の「進盛館」は有波三八、中区鷺山の「櫻湯」は有波三祐治で、おそらく親類であろう。
杉山や有波の出身地である西蒲原郡は、信濃川流域に広がる蒲原(かんばら)平野の中央部に位置し、巨大な水田地帯を形成している。そのなかの打越村(現・新潟市西蒲区)を中心に、周辺の農村から京浜地域の銭湯経営者が数多く巣立っていった。特に旧中之口村域からは、赤塚五郎や田村虎太郎、栃倉晴二など、全国の浴場組合を牽引する人物が登場した。
能登半島と同様に、蒲原平野の村々にも京浜地域に移住した人びとの痕跡が残っている。例えば、京浜地域における銭湯経営者の先達である小林金吾を輩出した打越村の宇智古志神社には、在京者から寄進された鳥居や石橋、灯篭などがあり、1901(明治34)年4月に建立された狛犬の台座には、「在横浜」の文字も刻まれている。
対の狛犬のうち、右の阿形の狛犬は東京在住者のもので、小林金吾や佐藤豊蔵(渋谷町「弘法湯」)の名前が確認できる。一方、左の吽形の狛犬は横浜在住者のもので、平岡祐蔵、小林権七、小林金松、北條彦太郎、小林初太郎、高野開次、小林丑蔵、北澤庄平の名前が刻まれている。『六大都市府県下浴場名鑑』を調べると、28年後の1929(昭和4)年段階で、北澤庄平は神奈川町「金川湯」と白幡町「第二隆盛館」を経営していた。また、系列の青木町「隆盛館」は北澤清松、南太田町「富士の湯」の経営者にも北澤松蔵の名前が見られる。北澤グループが横浜の地に根を張っている様子がうかがえる。
以上のように北陸地方出身者は、同郷者集団のネットワークを重視しつつ、苦労を重ねながら横浜の地に根をおろしていった。一方、生まれ育った地域に残された「在横浜」の文字からは、横浜にあっても、故郷を忘れないという移住者の心情が読み取れる。横浜の銭湯経営者の痕跡は今も北陸地方に残っている。
(吉田律人)
※現地調査にあたっては、石川県立図書館の石田文一氏、七尾市教育委員会の和田学氏、善端直氏、北林雅康氏、中能登町教育委員会の坂下博晃氏、道下勝太氏、中之口先人館の大矢昇氏、宝輪克也氏にお世話になりました。ここに記して謝意を表します。