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「開港のひろば」第139号
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資料よもやま話
幕末のイギリス駐屯軍中尉の手紙(続)
1864〜66年に横浜に駐屯したイギリス陸軍第20連隊第2大隊のジェームズ・スミス中尉(James Smyth)が残した手紙53通やスミスが描いたスケッチ画、写真帳等の資料は「スミス文書」としてスミス家から寄託を受け、展示や出版に活用している。
前々回の企画展「横浜の西洋人社会と日本人」でも一部出陳し、また本誌第105号でも、鎌倉事件に触れた手紙を「資料よもやま話2−幕末のイギリス駐屯軍中尉の手紙」で紹介した。
当時の横浜の情況や駐屯生活を記録した類似の一次資料は少なく、「スミス文書」は貴重である。現在、手紙の翻刻・分析を進めており、その成果を当館『紀要』で公開し始めたが、本誌でも続編として64年分の一部を関係するスミスのスケッチ画も入れて紹介したい(以下、訳文は抄訳である)。
横浜からの最初の手紙
1864年1月22日、本国から上海経由で横浜に到着したスミスは、早くも日本人の習慣についてイギリスの母親に書き送った。
日本人は穏やかな気質で、丁寧だ。朝、出会うと、オハイオ(おはよう)と挨拶する。とてもかわいらしい娘もいるが、結婚するとお歯黒をし、唇も黒く塗り、眉も剃ってしまう。男たちは中国人よりずっと開放的だ。彼らのほとんどは刀と槍の扱い方を躾けられている(母親宛て、64年1月28日付)。
また、日本の情勢について、江戸に多数のロウニン(浪人)がいて徒党を組んでうろつきまわっていて危険なため、横浜に住む誰もがどこに行くにも拳銃を携行している、とも記している。
二人のイギリス人と知り合いになったことも書いている。横浜居留地の歴史を語る際に欠かせない人物だ。「イタリア人[イタリア生まれのイギリス人]の写真家ベアトと『絵入りロンドン・ニュース』特派員のワーグマンの二人は一緒に住んでいて、設備がよく整ったスタジオを構えている」。
スタジオの共同経営を始めたばかりの二人は、来浜して来た駐屯軍士官らにセールス活動をおこなったのかもしれない。もっとも、小さな居留地社会で同国人同士が知り合いになるのは難しいことではなかったと考えられる。