横浜開港資料館

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「開港のひろば」第139号
2018(平成30)年1月31日発行

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企画展
北陸地方から横浜へ
―銭湯経営者と同郷者集団―

横浜の銭湯経営者のルーツをたどると、石川県人、特に日本海に突き出した能登半島(羽咋郡(はくいぐん)・鹿島郡(かしまぐん)・鳳至郡(ふげしぐん)・珠洲郡(すずぐん))の出身者が圧倒的に多く、次いで新潟県人、富山県人や福井県人と続いている。県人会名簿等を分析した金崎肇「石川県人と大都市の浴場業」(『地理』第六巻第四号、1961年)によれば、中区伊勢佐木町周辺にあった銭湯の多くは、鹿島郡崎山村(現・七尾市)の出身者が占めていたという。

晩秋から翌年の春まで、厚い雪雲に覆われる日本海側の各地域では、農作業や出漁が難しくなるため、多くに人が関東地方などへ出稼ぎに出て行った。また、農家の次男以下は仕事を求めて家を出なければならず、そうした人びとが都市部へと集ってきた。この中から重労働である銭湯経営を行う者が現れ、成功すると、郷里の人間を呼び寄せて経営の規模を拡大させていった。このような同郷者・親戚で作られた「親分・子分」のグループを銭湯業界では「一派(いっぱ)」と呼んでいる。横浜市内には、北陸地方出身者のグループがいくつも存在していた。

その後、横浜に根をはった第一世代から世代交代が進み、現在の銭湯経営者は横浜で生まれ育った者が大半である。それゆえ、第一世代の郷里との関係は希薄になっており、伝聞情報を除き、横浜に北陸地方との繋がりを示す記録はほとんど残っていない。

しかし、銭湯経営者を輩出した北陸地方には、神社などに横浜との繋がりを示す痕跡がいくつも残っている。かつて横浜で成功した者は、郷里の神社に鳥居や狛犬、灯篭などを奉納していったのである。今回の展示では、そうした横浜に移住した人びとについても紹介していきたい。

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