HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第139号 企画展 北陸地方から横浜へ―銭湯経営者と同郷者集団―〈2〉
「開港のひろば」第139号
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企画展
北陸地方から横浜へ
―銭湯経営者と同郷者集団―
石川県七尾市
1935(昭和10)年1月に発行された『浴場評論』(発行者は鶴見区佃野町で「大綱温泉」を営む福澤徳太郎)は、横浜の銭湯業界を担う人物として、中区本牧町で「中将湯」を営む受川力蔵と、同福富町で「福富湯」を営む松田彦治の二人を紹介している。このうち受川は鹿島郡崎山村上湯川の出身で、1922(大正11)年に本牧で銭湯の経営を開始、津村順天堂の浴剤「中将湯」を用いる特約銭湯として繁盛するとともに、受川自身も山手浴場組合の組合長を務めていた。
この受川姓は上湯川地区に多く、『六大都市府県下浴場名鑑』(浴場新聞社、1929年)に記された受川藤作(富士見町「山吹湯」)、受川金太郎(長者町「第一塩谷湯」)、受川重蔵(元町「宮の湯」)などはおそらくそこの出身者だろう。また、受川力蔵の妻は新潟県人で、業界内における石川県人と新潟県人との結び付きもうかがえる。
今回、展示の準備作業にあたって、湯川神社をはじめ旧崎山村の神社を調査したが、残念ながら横浜との結びつきを示す痕跡を見つけることはできなかった。
しかし、七尾市教育委員会の協力を得た結果、同市中島町瀬嵐の三島神社で横浜との結びつきを示す痕跡を発見することができた。同神社には、鳥居の横に神社の名前を記した巨大な石柱が二本立っており、石柱の左側面には「奉納 在横浜 竹中乙吉」、右側面には「昭和十七年三月十一日 建之」の文字が刻まれている。
同時期の業界名簿を確認すると、竹中は保土ケ谷区天王町で「富士竹湯」を営む人物で、保土ケ谷浴場組合の相談役を務めていた。戦時体制下だったにもかかわらず、巨大な石柱を奉納している点から、横浜における竹中の成功が想像できる。