横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第139号 企画展  銭湯と横浜―“ゆ”をめぐる人びと―

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第139号
2018(平成30)年1月31日発行

表紙画像

企画展
銭湯と横浜―“ゆ”をめぐる人びと―

ヴィルヘルム・ハイネの描いた銭湯
『ペリー提督日本遠征記』 当館蔵
ヴィルヘルム・ハイネの描いた銭湯 『ペリー提督日本遠征記』 当館蔵

日本人はこころと身体の疲れを癒すため、お風呂を求めます。人びとが集まる都市部において、入浴の機会を提供しているが街々の公衆浴場、「銭湯」です。日本が急速な経済成長を遂げる昭和30年代から40年代前半、横浜市内にはおよそ340軒前後の銭湯があり、日々多くの人が利用していました。しかし、日本人の生活スタイルの変化とともに、家庭風呂が普及すると、銭湯は次第に減少、2017(平成29)年12月現在軒数は休業中のものを含めて70軒となっています。

営業軒数の減少は、一つ一つの銭湯が歩んできた歴史の喪失を意味します。このままでは市民生活と密接に関わっていた銭湯の存在が忘れ去られる可能性があります。それを防ぐため、銭湯や温泉の歴史を後世に伝えることを目標に、今回、横浜市歴史博物館と共同で企画展示「銭湯と横浜」を開催します。特に当館では、幕末維新期から敗戦直後の時期を対象に、銭湯や温泉をめぐる人びとの動きに注目しながら、横浜の都市形成史をたどっていきます。

1859(安政6)年6月の開港以降、干拓地の上に新しい街が形成されると、銭湯も新開地の横浜へ進出してきます。開港直後に出版された「御貿易場瓦版」には、銭湯の開業が記されているほか、『みなとのはな横浜奇談』は「家数に対しては人民の多き事、湯屋・髪結床をもっても知るべし」と記しています。

明治維新後も横浜への人口流入は続き、都市化の進展とともに、銭湯の数も増えていきます。銭湯の増加は同業者間の激しい競争を生み、ライバルと差をつけるため、湯の花や入浴剤が普及していきました。また、大正期には、労働者に入浴の機会を提供するため、県営の公設浴場も登場、民間の銭湯との間で新たな競争を生み出します。その後、関東大震災によって都心部の銭湯は壊滅するものの、震災復興と京浜工業地帯の形成を契機に、神奈川・鶴見方面で銭湯の数が伸びていきました。

一方、1914(大正3)年、橘樹郡大綱村でラジウム鉱泉が湧出すると、1927(昭和2)年の東横線全通とあいまって、横浜の北部に京浜の「奥座敷」となる綱島温泉が出現します。綱島は都市近郊の行楽地として急速に発展していきました。

しかし、第2次世界大戦の勃発によって銭湯や温泉は次第に衰退していきます。そして敗戦後、戦争によって担い手の多くを失った横浜の銭湯は、焼け野原から新たに出発することになりました。

(吉田律人)

このページのトップへ戻る▲