横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第137号
2017(平成29)年7月20日発行

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展示余話
もう一つの消えた場所―山下海水浴場

庶民派の海水浴場

『横浜貿易新聞』明治36年(1903)7月21日号に、「山下の海水浴」という記事が掲載されている。ここからも当時の賑わいが知れる。この年の海開きは7月1日で、坂道(おそらく狢坂)の下り口とフランス山の下に、横浜館・たこ屋など合計22軒の茶屋が設けられた。茶屋の設備は年々向上し、海水浴後の銭湯も男女別に綺麗さっぱりと整えられた。また海水浴場へ向かう舟についても、以前は客をぎゅうぎゅうに詰め込んだ例もあったが、近年は税関の取締で改善されたという。

記事には山下の海水浴場は「昨今の暑気にて中々の繁盛を極めて」いるとある。そして、一昨日の19日の日曜日には、山下町211番地の男女職工100人あまりが、たこ屋を貸し切り、楽隊まで連れて、賑やかに遊んだという。『横浜繁昌記』には、山下海水浴場は「年の若い生意気盛り」が多く、「上等の連中」は来ず、西洋人もその雑踏を嫌い、本牧八王子方面に行くとある。山下海水浴場は庶民派の海水浴場だったようだ。

『横浜繁昌記』には、「もとより遊ぶところの少ない横浜」とある。確かに当時の横浜市中心部は、貿易場である関内と、そこで働く人びとが暮らす関外からなり、経済活動が優先された場所で、庶民の行楽の場の余地はほとんどなかった。そうした中、山下海水浴場は、手軽に楽しめる夏の行楽地として、大いに賑わったのである。

埋め立てへ

しかし大正4年(1915)、山手の崖下一帯の埋め立て工事のため、海水浴場は本牧方面に移転した。その頃には、横浜貿易新報社が主催する磯子海水浴場などが賑わいを見せていた。山下海水浴場の跡地の海は埋め立てられ、一時は地図上では「山瀬町」と記載されるが、大正12年(1923)2月に「新山下町」の町名がつけられた。同年9月1日、関東大震災が起こった。付近には横浜公園以外に広場や空き地がほとんど無かったため、この新埋立地が市民の避難場所として重要な役割を果たした。震災直後にはテント村が出現した。

図4 横浜市平面図(部分) 横浜市役所 大正13年3月 当館蔵
図4 横浜市平面図(部分) 横浜市役所 大正13年3月 当館蔵

震災復興の過程でこの一帯は住宅地などとして整備され、さらに新山下町の地先には貯木場が設けられていった。そして、かつてはハマの庶民の憩いの場であった「山下海水浴場」の記憶は遠のいていったのである。

消えた場所の存在と消えた理由を探ることは、それぞれの時代の要求とその変化を知ることにつながる。

(伊藤泉美)

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