横浜開港資料館

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「開港のひろば」第137号
2017(平成29)年7月20日発行

表紙画像

企画展
ドイツ商人の妻が残した2冊の貼込帳

グローサー商会

貼込帳を残したクララ・グローサーClara Grösser(1863-1907)の夫、フリードリッヒFriedrich (1844-1915)は幕末に来日したブレーメン出身のドイツ人貿易商で、横浜のグローサー商会主であった。

図1 フリードリッヒ・グローサー 「貼込帳2」から
図1 フリードリッヒ・グローサー 「貼込帳2」から

フリードリッヒの伝記として、長男のエドアルト(1883-1961)が1937年頃にまとめたものを元に近年刊行された『日本における、あるブレーメン商人』Friedrich Grösser, Ein Bremer Kaufmann in Japan, 1864-1893, [Bremen, 1995]がある。エドアルト自身の伝記『中国における、あるブレーメン商人』Eduard Grösser, Ein Bremer Kaufmann in China [刊行地、刊行年不明。前者より前に刊行]もあり、主にこの2冊の記述(若干異なる)に拠って、グローサー商会とグローサー夫妻について見てみよう。

1854年、フリードリッヒの兄、エバハートEverhardが長崎の出島にグローサー商会を設立したことに始まるとされる。64年、フリードリッヒが長崎に到着し、おそらく64年中に横浜へ移り、兄らとグローサー商会横浜店を開設した。同商会が横浜で扱っていた貿易品は、後年(1893年)の記録によると、輸入品として薬種・染料・機械類・鉄類・洋紙・ガラス・毛織製品、輸出品としては和産薬種・和紙類・和傘骨・竹類であった(当館編『図説横浜外国人居留地』1998年)。エバハートは70年代初めに、商会を弟に託して帰国した。

クララと貼込帳

1882年、一時帰国したフリードリッヒは、ブレーメンで19歳年下のクララと恋に落ちて結婚し、クララを連れて横浜に戻った。翌83年の長男エドアルトの誕生につづいて、長女エルナErna、次男ハンスHansも生まれた。20歳で来浜したクララは、ドイツ商館主の妻として、ドイツ人社会だけでなく、横浜居留外国人やさらに日本人との社交の場に出席するようになった。夫がドイツ人社交クラブであるクルプ・ゲルマニアの会長を務めるようになると、社交の場は広がっていった。

しかし、来浜から約10年後の1893年、体をこわしたクララは夫を横浜に残し、3人の子どもたちを連れて帰国した。クララはその後、横浜に戻ることはなく、1907年に44歳で病死した。夫、フリードリッヒも1902年頃には完全に日本を離れてドイツの家族の元へ戻った。同商会は同じドイツ系貿易商社のライマース商会に引き継がれた。

帰国したクララは、この2冊の貼込帳に綴じられたパーティーの招待状や席札、コンサートのプログラム、晩餐会のメニュー、名刺など約500点の品々を眺めては、3人の子どもを育てながら、商館主の妻として夫を助けて忙しく、しかし充実した日々を送っていた10年間を懐かしく思い出すことがあったかもしれない。あるいは横浜での折々の情景を思い浮かべながら、貼り込み作業に勤しんでいたかもしれない。

私的な目的で作成されたこの一商人の妻の思い出の貼込帳は、時を経て貴重な歴史資料となった。以下、ごく一部であるが、貼り込まれた資料を紹介しよう。

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