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「開港のひろば」第137号
2017(平成29)年7月20日発行

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資料よもやま話
武州金沢藩財政への森家の関与開始時期について

幕末期における武州金沢藩(六浦藩)の財政に武蔵国久良岐郡宿村(金沢区)の名主森家が深く関与していることについては、『横浜開港資料館紀要』34号・35号に掲載した「<史料紹介>武蔵国久良岐郡宿村森家文書「安政七年大福帳」について−幕末維新期における武州金沢藩の財政状況の一端−」において紹介した通りである。それでは森家が同藩の財政に関係するようになったのはいつ頃からなのであろうか。ここでは2点の史料を紹介することにより、その点を考えてみたい。

まず、史料1を掲げる(図1)。
  相渡申証文之事
一金百両也 但利足壱割五分
右者此度丹後守勝手向要用ニ付、借用申処実正也、返済之義者収納米を以、来丑十二月廿日限江戸表江不及伺、九十九方より元利無相違急度相渡可申候、為後日証文仍如件
 文化十三子年十二月
     米倉丹後□内
       新倉九十九(印)
       恒岡弥平太(印)
    神奈川宿
     諏訪屋
      吉兵衛殿

前書之通調達金返済方之義相違無之候、以上
       柴田相助(印)

図1 文化13年(1816)12月 相渡申証文之事
当館所蔵 森兵五家文書 証文類(文化年間23)
図1 文化13年(1816)12月 相渡申証文之事 当館所蔵 森兵五家文書 証文類(文化年間23)

史料1は文化13年(1816)12月付で、米倉丹後守内の新倉九十九・恒岡弥平太の両名より神奈川宿の諏訪屋吉兵衛宛に出された100両の借用証文である。

本文冒頭に「此度丹後守勝手向要用ニ付」という借用の理由が記されている。「丹後守」は当時の藩主・米倉丹後守昌寿のことであるが、実際には丹後守家中=武州金沢藩の「勝手向」=財政の窮乏化による借用ということになる。12月という日付からは、年末の決算時における現金の不足を賄う資金ということになろう。

返済の方法は、元金100両と「壱割五分」=15%に当たる15両の利息を加えた合計115両を、翌年12月20日を期限として、「収納米」で返済するというものであった。

「収納米」は藩領村々から徴収する年貢米であり、米の現物による返済が想定される。具体的には、武州金沢藩領の内、金沢陣屋周辺に存在する金沢領6か村の年貢米を、当時定期的に米市場が成立していた神奈川宿まで海上輸送で運搬し、借用金の返済に充当したことになろう。貸主である諏訪屋吉兵衛はこうした米市場に参加していた米穀商であった可能性が想定される。

差出人である新倉九十九と恒岡弥平太の職名や職掌は記されていないが、「江戸表」=江戸の藩邸への伺いをせずに元利金115両を諏訪屋吉兵衛へ渡すことを約している「九十九」=新倉九十九の位置づけからは、両人が藩政首脳部(おそらくは家老クラス)に該当するとみてよいだろう。奥書に署名・捺印している柴田相助は両人より一ランク下の実務担当者という位置づけであろうか。

以上、史料1からは、武州金沢藩の財政状況が年末の決算時において支出する経費に不足しており、それを補填するため本来であれば次年度の収入に当る翌年の年貢米を担保として借金を行わざるを得ない財政状況に陥っていることが分かる。ただし、年貢米の収納と市場への売却が行われる11月から12月は、市場に出回る米の量が増加するので、相対的に米価は安くなるという実態であったと思われる。

さて、史料1について留意しなければいけないのは、宛名が神奈川宿の諏訪屋吉兵衛であるにもかかわらず、この文書が森家に伝来・所蔵されていることである。何らかの理由によって文書が森家へ移動したのである。資料的には確認できないが、その経緯を想定するならば、文化13年に諏訪屋吉兵衛から借用した100両を藩が完済することができず、実質的に森兵四郎が代替した可能性が考えられる。その担保・権利の確認として、諏訪屋吉兵衛から新倉九十九へ戻された証文を森兵四郎が所持しているのであろう。

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