横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第137号
2017(平成29)年7月20日発行

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展示余話
もう一つの消えた場所―山下海水浴場

7月17日まで開催した「横浜・地図にない場所−消えたものから見えてくる、ハマの近代」展は、現在の地図からは消えた場所や地名をとりあげ、その消えた理由をさぐることで、近代横浜の歩みをふりかえる企画であった。消えた場所として、横浜村、洲干弁天、平沼塩田、港町の魚市場、元町百段、横浜監獄などの10か所を取り上げた。本稿では、展示では取り上げなかった、もう一つの消えた場所について紹介したい。夏の季節にちなんで、山下海水浴場である。

山下海水浴場はどこに?

まずは海水浴場の場所を確認したい。「山下」といっても、山下居留地あるいは山下町の地先ではない。山下海水浴場の記載は地形図や都市地図ではなく、観光案内本の付図に記されている場合が多い。その一枚が図1である。これは大正元年(1912)12月に刊行された、石野瑛著『横浜』の折り込み地図である。山下町から谷戸橋を渡った先の山手の崖下に「山下海水浴場」と記されている。ただし、大正2年(1913)7月出版の和田万之助著『横浜商業遊覧案内』の付図ではもう少し範囲が狭い。図1の「浴」の字のあたりまでが、海水浴場として赤く示されている。現在の新山下1丁目から3丁目あたりまでが海水浴場の範囲だったようだ。また図1の地図には、海水浴場の記載の下に「埋立地」の文字と点線が記されており、この場所がまもなく埋め立てられる運命であることも知れる。『横浜』の本文中では、「横浜の四季」の「海水浴」の項目で「本牧、磯子、子安、神奈川、山下町海岸」の5か所が紹介されている。

図1 横浜市全図(部分)1912年 石野瑛著『横浜』付図 当館蔵
図1 横浜市全図(部分)1912年 石野瑛著『横浜』付図 当館蔵

明治・大正期に発行された他の横浜の案内本を調べてみると、いくつかが山下海水浴場に言及している。明治35年(1902)5月に刊行された『横浜案内』では、口絵に「山下水泳場」の写真が掲載されている。図2である。山手の崖下に長細くつづく海水浴場の様子がわかる。本文中には海水浴場として「山下海岸、高島町、根岸、本牧、神奈川」が列記されている。また、明治38年(1905)1月初版・明治40年(1907)3月訂正の、鈴木金輔編・刊『横浜案内』にも海水浴場の記載がある。「海水浴 山下海岸、根岸、高島町、本牧」と紹介されており、付図「横浜明細新図」でも「山下遊泳場」が明記されている。

図2 山下水泳場『横浜案内』(1902年) 口絵写真 当館蔵
図2 山下水泳場『横浜案内』(1902年) 口絵写真 当館蔵

そもそも山下の海水浴場は、狢(むじな)坂のあたりに住んでいた西洋人が海水浴を試みたのが始まりという。狢坂とは谷戸坂付近から山手の崖を下る細い坂道である。その後、明治23年(1890)頃に、本牧字梅田の佐藤五郎吉と小港の佐藤政五郎が、県庁に茶屋の開設を願い出て、水泳場を設置したという。それから数年を経過した頃には、茶屋の数も6軒に増えたという。

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