横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第137号
2017(平成29)年7月20日発行

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展示余話
もう一つの消えた場所―山下海水浴場

山下海水浴場の賑わい

明治36年(1903)に刊行された『横浜繁昌記』には、「山下の海水浴」として8頁にわたる記載がある。ここではその記述を中心に紹介したい。まずは場所について「山下と云うのは、山手町すなわち山手居留地の海面に臨んだ崖下で、後ろには緑樹うっそうたる高地を負い、前には築港外のようようたる海波を望み、日麗らかにして風清く、夏は涼しき代わりに冬暖に、誠にこれ一個の仙郷である」(適宜句読点を加え、一部漢字をひらがなで表記した。以下引用分は同様)と評する。そして「夏におけるここの賑わいと来ては一方ならぬものである」と記す。

その賑わいとはいかなるものだったのだろうか。同書によれば、山下海水浴場のあたりは遠浅の海が広がり、「大抵は足の届くところでボチャボチャしている」。現在の海の家に相当する「掛茶屋」も多かった。茶屋では茹で小豆・枝豆・寿司・焼きするめなどをつまみながら休憩もできたし、潮湯(風呂)もあった。浮袋も無料で貸してくれた。ちなみに酒類は禁止であるが、こっそり注文すれば出ないこともないという。

図3 山下海水浴場 当館蔵絵葉書 明治末から大正初期
図3 山下海水浴場 当館蔵絵葉書 明治末から大正初期

アクセス

山下海水浴場へはどのように行ったのだろうか。陸路で徒歩の場合は、狢坂をおりていった。人力車では横浜駅(現在の桜木町駅)から「山下水泳場入口」までは25銭で達したという(石野瑛著『横浜』)。陸路のほかには水路でのアクセスも一般的だった。伊勢佐木町入口の吉田橋、あるいは元町の西の橋や前田橋から乗合の小舟を利用し、海水浴場に向かった。吉田橋からの運賃は6銭ないし7銭、元町からは4銭であった。これらの船は釣船が転用されたが、儲かるので、市内だけでなく、千葉の業者も船を出したという。

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