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「開港のひろば」第137号
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資料よもやま話
武州金沢藩財政への森家の関与開始時期について
次に史料2を掲げる(図2)。
借用申金子之事
一金百両也
右者御勝手向御入用ニ付、借用申処実正也、返済之儀者年壱割五分之利足加、来巳ノ十二月中元利無相違急度返済可申候、為後日証文仍如件
文政三辰年十二月
新倉九十九(印)
小安五郎右衛門(印)
茂呂多門(印)
森兵四郎殿
前書之通相違[ ]候、以上
長坂郷右衛門(印)
柴田相助(印)
史料2は文政3年(1820)12月付で、新倉九十九・小安五郎右衛門・茂呂多門の3名より森兵四郎宛に出された100両の借用証文である。史料1をふまえれば、新倉九十九を含む差出人の3名は家老クラスであろう。奥書に署名・捺印している長坂郷右衛門・柴田相助は両人より一ランク下の実務担当者であろう。
「勝手向御入用ニ付」という借用理由と借用金100両と利率「壱割五分」(15%)、さらには翌年12月という返済期日等については、史料1と比較してほぼ同内容である。
史料1と異なるのは「収納米を以」の文言が見られない点である。需要と供給の関係上、年末には価格が下がる米ではなく、金銭によって決済を行う方式に変更したのかもしれない。
わずか2点の資料から結論めいたことを導くことは避けなければならないが、冒頭に述べた課題に即していえば、史料1が出された文化13年(1816)から史料2が出された文政3年(1820)の間に、年末決算の経費の借用先が森家へ変更されており、森家による武州金沢藩財政との関係もこの頃より始まるものと考えられる。
(斉藤 司)