横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第136号
2017(平成29)年4月26日発行

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企画展
「横浜・地図にない場所」展示資料から

特に違いが認められる場所は3つある。第1は後の日本大通り付近、第2は洲干弁天付近、第3は鉄道用地である。

第1の場所について見ていこう。図2の中央の湾曲した突堤、象の鼻から上方に直線に伸びる道がある。これは大火の経験から外国人居留地と日本人町との間に防火帯として整備される、後の日本大通りである。図1ではこの道路がまだ造られていない。図2ではさらに道沿いに建物が描かれている(図4参照)。その1つは「英役館」だ。これは明治2年(1869)に新築されたイギリス領事館である。

第2は洲干弁天付近である。図1のほぼ中央、開港場の右端には、周囲が市街地化されつつあるものの、まだ樹木と池が残る洲干弁天が確認できる。一方、図2では、弁天は跡形もなく、そのかわりに日の丸を掲げた灯明台(灯台寮)が描かれている。これはブラントンのオフィス兼住居でもあり、1869年に完成している。灯明台の建設にともない、洲干弁天は羽衣町に移転した。

第3の変化は鉄道用地である。図2の灯明台の少し上に関所と橋がある。これは埋め立てられた右手の「新地」に渡された、後の大江橋である。「新地」からは細い道が海の中を走り、そこには「馬車道」とある。これは1869年に本町通りから神奈川まで開通した乗合馬車用の道であった。まもなく「新地」は初代横浜駅、「馬車道」は鉄道線路へと生まれ変わる。図1にはこれらが全く描かれていない。

この3つ以外にも変化が読み取れる。図2の絵図には、横浜で進行中の新しい動きをいち早く伝えようとした貞秀の思いがつまっている。その最たるものが、図の中央に囲みで説明されている吉田橋だ。当館蔵の図1「大港横浜之図」では吉田橋部分が欠落しているが、神奈川県立図書館所蔵の「大港横浜之図」では木造の橋が描かれている。吉田橋は1869年に、日本初のトラス構造の鉄橋に掛け替えられたばかりだった。

図3 元町百段 明治後期 当館蔵
図3 元町百段 明治後期 当館蔵

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