横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第136号
2017(平成29)年4月26日発行

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ミニ展示
都筑区川和町の中山家の観菊会

現在の都筑区川和町に住んでいた中山家では、文政12(1829)年から菊の栽培がおこなわれた。明治時代になると品種の改良も進み、明治時代末年には1500種類もの菊を栽培したと伝えられる。同家の菊園は「松林甫」と名付けられ、江戸時代に江戸で流行した「江戸菊」(中菊とも呼ばれた)が多く栽培された。秋におこなわれた観菊会には各地から著名人が訪れ、大きな話題になった。

大正期に開催された「松林甫」での観菊会の光景
中山恒三郎家所蔵
大正期に開催された「松林甫」での観菊会の光景 中山恒三郎家所蔵

たとえば、明治35(1902)年11月21日に発行された「横浜新報」は、「松林甫」での観菊会を次のように伝えている。「明後廿三日、県下都筑郡川和村、中山恒三郎氏方にては臨時観菊会を催す由なるが、同会は吾国愛菊家200余名の会員より成り立ち居り、会頭には現大蔵大臣曾根荒助氏、副会頭には小森沢子爵、特別会員には毛利公、大隈伯、松方伯、土方伯等あり。去る16日には曾根蔵相邸にて定例闘菊会ありたりしが、その節、川和より出陳せし新花は総て最高位を占めたるため、今回、会員一同にて同氏が邸園ならびに造菊の工合なども見たしとの事なるより、さてこそこの度、臨時闘菊会を開くこととなりたる由。尚、当日午後1時よりは持ち寄り闘花の審査結果を陳列して一般の縦覧を許す筈なりと。」

100年以上前の新聞記事であるため読みにくい文章ではあるが、「松林甫」で栽培された菊が大きな話題になっていたこと、当時の大物政治家であった大隈重信や松方正義らが「松林甫」の菊に強い関心を寄せていたことが分かる。東京からの来園者も多く、汽車を神奈川停車場で降りた人びとは人力車に乗って川和を訪れた。園内には所々に東屋が造られ、記者は菊の美しさを「菊花爛漫として咲き揃いたるの日は、その壮観なること想像の外なるべし」と述べている。

横浜開港後、横浜港からは日本のユリがヨーロッパ諸国に輸出され、横浜では内外の植物を輸出する商社が活動した。その一方で伝統的な菊の栽培が横浜の地でおこなわれていたことは記憶に留めたい。本年3月25日から6月4日まで、横浜市では「第33回、全国都市緑化よこはまフェア」が開催される。市内各所の会場では多くの花が咲き乱れることになるが、花を眺めながら菊栽培の歴史にも想いを馳せていただければと思う。

(西川武臣)

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