HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第136号 企画展 横浜・地図にない場所 ―消えたものから見えてくる、ハマの近代
「開港のひろば」第136号
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企画展
横浜・地図にない場所
―消えたものから見えてくる、ハマの近代
地図を眺めていると、時折、不思議な形の区画や、不自然な形の道路に気づくことはありませんか。なぜこんな形をしているのだろう。ここには何があったのだろう。こうした疑問を抱えながら、地図を見るのは楽しいものです。
さざ波のうち寄せる砂浜、市街を縦横に走る川、塩炊きの煙がたなびく塩田、沖合に現れる海水浴場。かつての横浜には、今では想像もつかないような場所がありました。
幕末から現代までの160年近くの間に、横浜市中心部は小さな村から大都市へと、大きな発展を遂げました。その過程で、多くのものが生まれ、多くのものが姿を消しました。こうした都市の変貌のありさまを記録したのが、それぞれの時代の地図といえます。
街の姿という観点からいえば、横浜市中心部に大きな変化をもたらした事柄は、3つあるでしょう。
第1は、幕末から明治初年にかけての開港場の建設です。一寒村であった横浜村が貿易港として開かれると、村は外国人居留地などに姿を変え、浜には石造りの波止場などが造られました。村の住民や彼らの祭っていた神社なども、移転させられました。
第2は、1923年の関東大震災です。激震により市中心部のほとんどの建物は倒壊焼失し、崖なども崩れ落ちました。つづく震災復興の過程では、道路整備や区画整理が行われ、また市域北部の沿岸部が埋め立てられ、工場用地となっていきました。
そして第3は、大戦・接収・戦後復興の後にやってきた1960年代以降の高度経済成長です。この時期にはさらなる工場用地の拡大と交通網の整備などを目的として、市域沿岸部と市中心部の河川の埋め立てなどが進みました。
こうして横浜の街は大きくその姿を変えてきました。今回の展示は、幕末から昭和戦前期までの地図を中心に、消えた場所や地名の、消えた理由を探りながら、近代横浜の歩みをふりかえります。
(伊藤泉美)